ラーゲリからの遺書——山本幡男の生涯が教えるもの 岡田昌平(山本幡男を顕彰する会 会長)

終戦後のシベリアで過酷なラーゲリ(強制収容所)に抑留されながら、勉強会や俳句の会を主宰し続け、不屈の精神を以て人間らしく生きることに徹した山本幡男。幡男はなぜ生きる希望を失わなかったのか――。その艱難辛苦の人生から見えてくる希望を失望に終わらせない要諦を、「山本幡男を顕彰する会」の岡田昌平会長に繙いていただいた。

最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである

山本幡男

明治41年島根県隠岐島黒木村生まれ。東京外国語学校(現・東京外国語大学)に進学。昭和11年南満州鉄道会社の調査部に入社。20年日本降伏後ソ連に抑留され、スヴェルドルフスク収容所に収容。25年俳句をつくり合う「アムール句会」の活動を開始。29年喉頭癌性肉腫悪化のため収容所内の病室で逝去。

幡男にとって最も辛い出来事は、人間性を喪失することでした。

だからこそ、絶望的な状況でさえ、生活の中に何気ない喜びや楽しみを見出していく。

その心構えが生きる希望に繋がり、ダモイの日を信じる糧になっていたのでしょう

岡田昌平
山本幡男を顕彰する会 会長

第二次世界大戦の終戦後、約60万人の日本人が抑留されたとされるシベリアのラーゲリ(強制収容所)。氷点下40度の極寒、乏しい食糧、過酷な強制労働……。多くの俘虜が生きる望みを失う中、「ダモイ(帰国)の日は必ず来る」と絶望の淵にある仲間を励まし続けた人物、それが山本幡男です。

そんな偉大なる凡人の生涯が日の目を見たのは、1989年のことでした。幡男の半生が描かれた、辺見じゅん氏のノンフィクション小説『収容所から来た遺書』が上梓され、テレビや演劇で頻繁に取り上げられるようになりました。

幡男の出身地・島根県西ノ島の町長を務めていた当時の私はその内容に感銘を受け、幡男の知人であった伯父や抑留から生還した方の元を訪ね歩くようになりました。幡男に接した人々との交流を通じてその偉大さを改めて実感すると共に、故郷の偉人を広く知ってもらいたいとの思いに駆られたのです。

地元から26名の有志を募り、1998年に「山本幡男を顕彰する会」を発足しました。

以後の顕彰会は、景勝地「摩天崖」への顕彰碑の建設や西ノ島ふるさと館での資料・遺品の展示、生家跡への顕彰碑の建設、講演会をはじめ、様々な活動に取り組んできました。2022年には俳優・二宮和也氏主演の映画『ラーゲリより愛を込めて』が公開され、再び脚光を浴びています……(続きは本誌にて)

 ▼「ダモイの日は必ず来る」偉大なる凡人の生涯
 ▼博学多才さの原点 向学心に燃えた青年期
 ▼「生きて帰るという希望を捨てたら死んでしまう」
 ▼過酷なラーゲリで灯し続けた希望の光
 ▼一晩で書き上げた15頁の遺書
 ▼「最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである」
 
本記事では全4ページにわたって、終戦後のシベリアで強制労働を強いられた中でも生きることへの希望を強く唱え続けた山本幡男の半生を、顕彰会の岡田昌平会長にお話しいただきました。
人間性が容赦なく剥ぎ取られる環境下にも拘らず、最期まで力強く生き、天寿を全うした幡男の生き方が示すものとは――。

仲間が幡男の字体まで真似て書き写した全15ページに及ぶ遺書の一部

プロフィール

岡田昌平

おかだ・まさひら――昭和17年島根県西ノ島生まれ。46年中央大学卒業。58年西ノ島町町長就任。平成10年「山本幡男を顕彰する会」を設立、以来現職。平成11年西ノ島町町長を退任。


編集後記

シベリア抑留の壮絶な足跡が一昨年に『ラーゲリより愛を込めて』として映画化され、脚光を浴びている山本幡男。その故郷で立ち上がった「山本幡男を顕彰する会」会長の岡田昌平さんの語りから、希望を失わない生き方が見えてきます。

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