地下鉄の父・早川徳次の挑戦者魂に学ぶ 玉川信子(地下鉄博物館学芸課長)

大都市東京の地下に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた地下鉄。計13路線304キロ、一日に約690万人が利用するこの鉄道網を現実のものとしたのが、ある青年実業家の志だったことは知られてない。地下鉄の父・早川徳次。日本、また東洋初となった大事業を成し遂げたその「挑戦と創造」の歩みを、地下鉄博物館学芸課長の玉川信子氏に伺った。
[写真提供=地下鉄博物館/メトロアーカイブアルバム]

「必要の事は、何時か必ず実現する。必要は不可能のことすら可能に変へて行く」

早川徳次(はやかわ・のりつぐ)

明治14年~昭和17年
Ⓒメトロアーカイブアルバム

玉川信子
地下鉄博物館学芸課長

 当時の東京の状況に目を移すと、交通手段は路面電車が中心でした。ただ、増え続ける人口に対して路面電車は既に限界に達しており、「満員電車」が東京の名物として流行歌にもなっていました。
 そんな中、徳次は鉄道院の嘱託として欧州視察へ出発。最初に訪れたロンドンで、市街地を縦横に結ぶ世界最古の地下鉄を見て感動します。日本の近代化のためにも地下鉄が絶対に必要だと痛感した徳次は、さらにイギリス各地、パリやニューヨークで研究を続け、1916(大正5)年に帰国します。35歳の時でした。
 ところが志を熱く語る徳次への、学者や技術者の視線は冷ややかなもので、ペテン師と揶揄(やゆ)する人もいました。「東京は昔海だったのだから、地盤が軟弱で無理だろう」と。それでも徳次は、果たして本当に無理なのか、と考えます。
「必要の事は、何時か必ず実現する。必要は不可能のことすら可能に変へて行く」
 これが徳次の信念でした。最初の関門は敷設免許の申請でしたが、まず反対意見を破るため、徳次は次のような調査を行いました。
 一つは地質調査です。地盤の強さを確かめる方法を考えていた徳次は、東京には日本橋など橋が多いことにヒントを得ます。市の橋梁(きょうりょう)課に掛け合って建設時の地質図を手に入れ、地下深くには頑丈な地層があると確認するのです。
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土木技術には門外漢であった徳次青年は、いかにして東洋初の快挙を成し遂げたのか――? その軌跡に、心が熱くなります。

プロフィール

早川徳次

はやかわ・のりつぐ―明治14年山梨県生まれ。41年早稲田大学法科を卒業後、鉄道院に勤務。佐野鉄道、高野登山鉄道の経営を再建し、欧州視察の後、大正5年帰国して地下鉄建設へ踏み出す。9年東京地下鉄道を創立、昭和2年上野―浅草間に日本初の地下鉄を開通させる。15年退任、緑綬褒章受章。17年心不全のため逝去。

玉川信子

たまがわ・のぶこ―昭和42年埼玉県生まれ。平成元年大学卒業後、地下鉄互助会(現・公益財団法人メトロ文化財団)入会。地下鉄博物館学芸員、データ収集室を経て、29年より現職。


編集後記

日本に初めて地下鉄を走らせた早川徳次(のりつぐ)の知られざる生涯を、地下鉄博物館学芸課長・玉川信子さんに語っていただきました。一青年が東洋初となる金字塔を打ち立てた足跡から、プロジェクトを成功に導く要諦を学びます。

2022年4月1日 発行/ 5 月号

特集 挑戦と創造

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