長久保赤水 七十歳の家訓——千古一業に生きる 佐川春久(長久保赤水顕彰会会長)

三百有余年もの昔、常陸国に生まれ、本格的な日本地図を製作。江戸庶民の経済活動や幕末の志士に道標を与えたのが儒学者・長久保赤水である。学問分野を跨ぐ偉業は国内外で尊敬を集めるも、明治維新を境に歴史に埋もれてきた。
自筆の地図に「千古一業」(千年万年、永遠に残る一大事業)の印を捺した赤水。40年の歳月をこの顕彰に捧げる佐川春久氏の語りから、稀有なる先人が命を燃やした大事に迫る。

【長久保赤水 家訓】
それ孝は徳の本なり。わが子孫よろしくこれを行ふべし
……この語に事へず、専(もっぱ)らひそかに利を貪(むさぼ)り、色に溺るる者はわが子孫にあらざるなり。欽(つつ)しめや

長久保赤水
享保2(1717)~享和元(1801)年
©高萩市教育委員会

享保2(1717)年、常陸国多賀郡赤浜村に農家の長男として生まれる。幼名は源五兵衛。15年郷医鈴木玄淳の許で学ぶ。明和5年学問の功により水戸藩の郷士格に取り立てられる。安永8年『改正日本輿地路程全図』完成。安永6年より水戸藩六代藩主・徳川治保の侍講となり、江戸に常勤する。儒学、天文学、地理学等を広く修め著作多数。帰郷後の享和元(1801)年85歳で死去。

佐川春久
長久保赤水顕彰会会長

江戸時代中期、かの伊能忠敬より半世紀前に本格的な日本地図を完成させ、庶民の生活を向上させた人物がいます。水戸藩(茨城県)の儒学者・長久保赤水です。

「えっ、そんな人がいるの?」と思う方がいても無理はありません。事実、歴史教科書に登場するのは伊能ばかりだったからです。

二人の地図の違いを挙げるなら、まず伊能図は当人たちが各地を歩いて実測した〝測量図〟であり、幕府に提出された後も長く秘され、明治初年まで大衆の目に触れることはありませんでした。

一方の赤水図は、多数の人や資料から情報を収集し、学問的に考証に考証を重ねてできた〝編集図〟です。

赤水以前の地図は、戦争や税の徴収に用いられた、言わば支配者の道具でした。赤水は幕府の許可を得て自らの地図を出版、それも二十四分の一に折り畳める形を採り、たちまち江戸庶民や志士たちに広まりました。吉田松陰が旅先から兄に宛てた書簡には、「これが無くては不自由だから買い求めました」という旨が記されています。

松陰は赤水を先生と仰いでおり、その没後には常陸国を訪れ、墓参をしてから東北へ旅立っています。萩の松下村塾をはじめ全国の藩校で教材とされていた事実も鑑みるに、赤水図は明治維新のエネルギーを醸成したと言えるでしょう。

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▼独創の人 長久保赤水
▼二人の母から授かったもの
▼寸陰を惜しみ 五感で学ぶ
▼学問は何のために修めるのか
▼農民から藩主の侍講へ駆け上がった赤水
▼栄達も本懐にあらず 学問は人のために為す

プロフィール

佐川春久

さがわ・はるひさ――昭和24年東京都築地生まれ。47年22歳の時、茨城県高萩市に居を移し、市役所に奉職。広報広聴係での市報制作等を通して長久保赤水の事績を知る。平成24年長久保赤水顕彰会会長(三代目)となり、県内外で講演、新聞寄稿を多数行う。監修を務めた映画『その先を往け! 日本地図の先駆者長久保赤水』がYouTubeにて公開中。


編集後記

なぜ長久保赤水を知らなかったのか――取材後の率直な感想です。語り手の佐川春久さんの案内で市に所蔵された赤水の地図を間近に拝見、その緻密さに感嘆。しかし地図は言わば彼の趣味であり、学問は人を助けるためにあるとの思想が深奥にあったと教えられ、心を揺さぶられました。

2023年12月1日 発行/ 1 月号

特集 人生の大事

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