9 月号ピックアップ記事 /対談
坂村真民と相田みつをの言葉力 西澤真美子(坂村真民記念館館長補佐[学芸員]) 相田一人(相田みつを美術館館長)
人生を真剣に生きる人の言葉には力がある――。詩人・坂村真民と書家・相田みつをはまさにその典型だろう。それぞれ今年で没後15年、30年を迎えるが、お二人の作品はなぜいまも多くの人の心を捉えて離さないのか。なぜお二人の言葉には心を鼓舞する力があるのか。異才の人を父親に持つ西澤真美子さんと相田一人さんに、その言葉の魅力を、背景にあるものも含めて語り合っていただいた。
西澤
ところで、きょうはこんな写真を持ってきました。
相田
ああ、懐かしいです。鎌倉の円覚寺ですね。
西澤
いまから51年前の昭和45年8月、真如会を主宰されていた紀野一義先生が円覚寺で結集を開かれて、そこで父が講演をしました。この時に初めて、父と相田みつをさんはお会いしているんですよね。
相田
はい。生涯でたった一度の邂逅だったと思います。この時、父は真民先生のお話を聴くためだけに参加させてもらったんです。実は私も父と一緒に聴かせていただきました。父が46歳、私は14歳です。真民先生は61歳でしたね。
西澤
そうです。父が鎌倉で相田みつをさんとお会いした時のことを、後年述懐した文章が残っているんですよ。
相田
それは知りませんでした。なんて書いてあるのですか?
西澤
「わたくしは『詩と真実』という題で講演したのであるが、そのあとの質疑応答の時間で、詩の文学性、宗教性について議論が出、なかなか解決しなかったが、相田さんがとてもいいまとめ役をして下さった。その時初めて相田さんの人となりに触れたのである」
相田
とても嬉しいですね。この頃の父は、書家として世の中に全く知られていませんでした。ですから、こういう会に参加しても、何をやっている人なんだろうという目で見られていました。ただ、いまご紹介くださったように要所要所でいきなり発言して、その場の空気に合わせて話をまとめたりするのが上手だったので、結構目立ったんです。
父は真民先生にお目にかかるのが楽しみで参加したものですから、真民先生のお話に感動して、何かひと言話したんでしょうね。
西澤
先ほどの文章にはこういう続きがあるんです。
「いま(昭和62年)相田さんは書家として詩人として広く知られ、特にあの洒脱無縫の書は、多くの人に支えとなり励ましとなり、賞賛され愛好されている。わたしもまた凡人凡夫の一人として、野人野草の詩を作り続け、世を終わりたいのである」
たった一度きりの巡り合いではありましたが、父にとって相田みつをさんは特別な存在だったことがひしひしと伝わってきます。
相田
きょうはある意味で、五十一年ぶりに二人が再会を果たしたということになりますね。
西澤
私は父が40歳の時に生まれまして、40歳というのはちょうど短歌から詩に転換し、詩で生きていこうと決めた時期でした。40から始めるということで焦りもあったのでしょう。家から歩いていける距離に、大乗寺という四国で唯一の臨済宗の修行道場があって、そこで河野宗寛老師のもとに参禅するんですね。朝3時に起きて大乗寺で坐禅し、帰ってきて家族五人で一緒に朝ご飯を食べ、高校の先生をしておりましたから学校に行くという生活をしていました。
父自身が「猛烈な精進」と言っているように、雲水さんと同じ厳しい修行に打ち込み、自戒をたくさん立てて、食事制限をしたり、42歳から『大蔵経』を読み続けて3回読破するんです。
相田
仏教の聖典を総集した膨大な量の一大叢書ですね。
西澤
ずっと読み続けていく中で、無理が祟ったのと栄養失調も重なって、まず歯が悪くなるんです。40代で既に歯が数本しか残っていなくて入れ歯をつける。その後、目や内臓を患い、46歳の10月にとうとう寝込んでしまう。
当時住んでいた吉田から、名医として評判だった宇和島の眼科まで行った。待合室に入り切れないほど混んでいたので、道を隔てたところにあった護国神社で待っていたんですね。秋ですから、黐の木に赤い実がなっている。それを見て母を思い出すんです、母の名前がタネですから。で、その時に生まれたのが、「念ずれば花ひらく」なんですね。
相田
そういう背景があったのですか。
西澤
もし大乗寺に参禅し、『大蔵経』を読んでいなかったら、信仰というのはこんなに深くなっていなかっただろう。だから、尊い試練だった、この試練を乗り越えたから自分が深くなったと、父は言っていました。
相田
父の最大のピンチも40代後半だったと思います。先ほどの鎌倉の結集がまさにその頃です。30歳で初めての個展を開いて、
「自分は筆一本で生きる」と宣言した時が相田みつをのスタートです。その後2~3年おきに個展を開いて書を売る生活に徹していました。けれどもとにかく売れなくて、配給のお米の支払いを何か月も滞納しなければならないほど、貧乏のどん底をずっと生きていたわけです。
西澤
そうだったんですか。
相田
30で始めて50が見えてくる頃になっても、生活の苦しさは全然変わらない。これ以上頑張ったところで果たして妻子を養っていけるのか。世の中に理解されるのか。壁にぶつかって、精神的にめげた時期がありました。
悪いことは重なるもので、私が浪人してしまったんですよ。その上、田舎で浪人生活をしていてもダメじゃないかと思って、東京の予備校に行きたいなんてことを言ったんですね。そうしたら父は迷った末に東京に行くことを許可してくれ、収入がない中で何とか仕送りもしてくれました。
ある時、父が「勉強ばかりやっていると体に毒だから、たまには気分転換しろ。上野でいい絵の展覧会をやっているから、一緒に見に行こう」と誘ってくれました。約束の時間に不忍池のベンチに行くと既に父は着いていて、遠くから父の姿が見えたんです。常に若々しかった父でしたが、その時は普段の父に似つかわしくなく、悄然としているようでした。
その父に向かって、私はあろうことか、「お父さん、疲れたような顔をして元気がないじゃないか。いつも『一生勉強 一生青春』なんて言っているのに、ダメじゃないか」みたいなことを言ったんですね(笑)。
父は怒らずに苦笑いしていましたけど、その後、私も大学に無事合格して、少し落ち着いてきた頃に書いたのが、いまでは代表作として知られる「道」です。
西澤
ご自身の苦しい体験の中から紡ぎ出されたのでしょうね。
相田
父は嫌味ったらしく、「この詩は評判がいいんだよ。おまえのおかげで書けたから」って言っていましたけど(笑)、まさに二進も三進もいかない、非常に辛い時に生まれた作品だと思います。
プロフィール
西澤真美子
にしざわ・まみこ――昭和24年愛媛県生まれ。詩人・坂村真民氏の末娘。大学入学と同時に親元を離れたが、「念ずれば花ひらく」詩碑建立や国内外の旅行などを真民氏と共にする。母親の病気を機に愛媛県砥部町に戻り、その後、病床の母を見守った。平成24年の坂村真民記念館設立にも尽力。
相田一人
あいだ・かずひと――昭和30年栃木県生まれ。書家・詩人 相田みつを氏の長男。出版社勤務を経て、平成8年東京に相田みつを美術館を設立、館長に就任。相田みつを氏の作品集の編集、普及に携わる。著書に『相田みつを 肩書きのない人生』(文化出版局)などがある。
編集後記
51年前、生涯に一度だけ邂逅を果たした詩人・坂村真民と書家・相田みつを。共に40代で大きな試練に直面し、それを乗り越え、いまも多くの人々に生きる力を与え続けています。不世出の二人の先達が残した言葉と作品を、父親との思い出を交えてご息女の西澤真美子さんとご子息の相田一人さんにご紹介いただきました。
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