10 月号ピックアップ記事 /対談
危機を乗り越えた先に見えてきたもの 山本昌作(HILLTOP副社長) 浜野慶一(浜野製作所社長)
ヒルトップも浜野製作所も、もともとは小さな町工場だった。それを社会の耳目を集める有名企業に変革したのが山本昌作氏、浜野慶一氏である。ともに工場火災という危機を乗り越え、会社を大きく飛躍させてきた両氏に、これまでの道程、企業経営に掛ける熱い思いを語り合っていただいた。
大やけどをして死の間際まで行ったことは、僕の人生にとってよかったです。あのまま何もなくて、のほほんと生きていたら、ちょっと耐えられなかったでしょう
山本昌作
HILLTOP副社長
僕自身はこのまま廃人になっても仕方がないと思っていましたが、何とか立ち直れたのは、僕の席をずっと守ってくれていた社員たちがいてくれて、僕にラブコールを送ってくれたためです。
特に元暴走族の社員3人は、火事場泥棒が出ないように、焼け跡にビニールシートを張って、年末の寒い晩でも現場に寝泊まりしながら会社を守ってくれました。機械メーカーとの交渉も、すべて彼らがやってくれました。そういう姿に接していると、「もう駄目だ」と思っていた自分が恥ずかしくなりましたね。
私たちは後発中の後発の会社じゃないですか。2週間と言われて2週間で持っていっても、何らインパクトはない。半分の1週間で持っていったんです
浜野慶一
浜野製作所社長
「なかなか浜野さんのところに仕事は出せない」と言われ、でも、そこしか行くところがなくて、何度も何度も足を運びました。しかし、最後には居留守を使われたり、目の前で大きく罰点(×)をされたり……。
それでもめげずに通い続けていたところ、私の前で罰点をした人がある時、手招きするんです。不思議に思って近づくと「浜野君、これができるか」と単品の試作部品を2個だけ、しかも2週間という短納期で発注してくれました。
もちろん「ぜひやらせてください」と二つ返事で喜んでお引き受けしましたが、私たちは後発中の後発の会社じゃないですか。2週間と言われて2週間で持っていっても、何らインパクトはないと思いましてね。半分の1週間で持っていったんです。
プロフィール
山本昌作
やまもと・しょうさく――昭和29年京都府生まれ。立命館大学経営学部卒業後、父親が創業した山本精工所(現・HILLTOP)に入社。鉄工所でありながら、量産、ルーティンのない会社へと変革。現在では、スーパーゼネコンやウオルト・ディズニー、NASAなどの仕事も請け負っている。名古屋工業大学工学部講師。著書に『ディズニー、NASAが認めた遊ぶ鉄工所』(ダイヤモンド社)。
浜野慶一
はまの・けいいち――昭和37年東京都生まれ。東海大学政治経済学部卒業後、都内の精密板金加工メーカーに就職。平成5年先代の死去に伴い浜野製作所社長に就任、設計・開発や多品種少量の精密板金加工などの他、電気自動車「HOKUSI」、深海探査艇「江戸っ子1号」の開発にも携わる。著書に『大廃業時代の町工場生き残り戦略』(リバネス出版)。
編集後記
共に工場の大火に見舞われながらも見事に再建を果たし、成長を続けるヒルトップ副社長の山本昌作さん、浜野製作所CEOの浜野慶一さん。疲弊していた一町工場が社会の耳目を集める優良企業に成長する過程を通して、人間の思いの強さが道をひらいていくことを教えられます。
特集
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