『致知』に寄せられたお客様の声

『致知』を読んでのうれしいお便りがたくさん届いています。 ご感想の一部を紹介いたします。

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    致知は迷った時、道を逸れそうになった時に立ち返る場所

    栃木県在住 自営業 村上知久様(44歳)

     2年前、私は迷い、悩んでおりました。「人としてのあり方、大切なこと」を追求して生きていこうと決めたものの、ノウハウやテクニックといった表面的なものを求める現代社会に、生きづらさを感じていたのです。

     そんな折に、インターネットで『致知』のことを知り、購読を始めて私は迷いから解放されました。

    「やっぱり、人として大切なことを忘れてしまってはダメだ」と気づかされたのです。

     私はその少し前に、平日は東京、週末は栃木の実家で農業を手伝う二拠点生活を始めていました。都会での会社仕事は効率が求められますが、それが行き過ぎれば人間らしい心を失ってしまいます。

     一方で農業は、自然と向き合い、人と向き合い、命と向き合って仕事をします。必ずしもこちらの計算通りにはいかず、感謝の心を忘れると大もします。草刈りの際、雑草に対して「このやろう!」と思いながら作業をするのか、「根を張ってくれて、土地を丈夫にしてくれてありがとう」と思いながら作業をするのかで、成果がまったく違ってくるのです。

    『致知』はそういう大切なことを教えてくれ、迷った時、道をれてしまいそうになった時の指標となります。

     今年、私は実家の農業を正式に継ぐことになりました。ご先祖様から受け継いだ大切な農地を守り、日本の食を守る使命を担い、
    これからも『致知』で学びを深めていきたいと思います。

     

    人生に刺激をいただけるバイブル

    福岡県在住 鈴木隆宏さん(35歳)

    『致知』を知ったきっかけは、当時通っていた人材教育の学び場・キャリアコンサルティングでの紹介でした。ただ、最初は毎月手にしていたものの、その価値には十分気づいていませんでした。

     転機が訪れたのは、2017年。不動産関係の会社に勤める私はそれまで東京に住み、山梨・長野エリア担当で仕事をしていました。直属の上司から翌年も頑張るようにとされたわずか一週間後、その上の上司に呼ばれ、「来年からは海を見てこい」のひと言で広島への転勤が決まったのです。

     先週の直属の上司の鼓舞は何だったのか、という考えが頭をよぎりましたが、これも人生とはらくくり、広島に居を移して四国四県を担当することになりました。知人はおらず、中途入社のため同期もいない環境下でのスタートでした。

     支えになったのが、先輩に紹介されて入会した「中国致知若獅子の会」でした。最初は仕事との両立に苦労しましたが、参加する度に心が洗われ、いまは他の参加者に学び、自分を振り返るかけがえのない時間となっています。さらにありがたいことに、最近は全国で同世代の『致知』読者との交流機会も増えました。

     おかげさまで、『致知』を通じて一流の先達と出逢い、ベクトルを同じくするよき仲間と出逢い、人生における貴重な刺激をいただけているように思います。

     今後とも『致知』をバイブルとして読み続けたいと思います。

     

    致知』は日本一の心を鼓舞する月刊誌

    岩手県在住 シリウスグループ代表 佐藤幸夫さん(77歳)

     縁もゆかりもなかった岩手県盛岡市で住宅メーカーを創業したのは1994年、47歳の時です。

     5年以内に着工数で県下1位になる。10年以内に、大手住宅会社もシェアで抜き去る。15年で売上高50億円を突破する──。凡人の私が、創業時に立てたこれらの目標を達成できたのは、〝狂〟がつくほどの努力と、よいお客様、社員あってこそと感じます。

     おかげさまで創業30周年を迎え、振り返ると『致知』には何度も救われてきました。記憶が定かでないものの、創業間もない頃に手に取り、購読を始めました。

     私は『致知』が届くと、一日で隅から隅まで全部読んでしまいます。気がつくと、せんでびっちりになっている時もしばしばです。『致知』の好きなところは、出る方が皆、実践者である。思いを空理空論で終わらせずに、実践したことを語っているところです。

     読み続ける中で、それまで住宅の仕事は資格を取って現場管理と営業さえできれば一人前と考えていたのが、 「人格と徳が備わっていなければ一人前とは言えない」と考えるようになりました。

     このような思い、会社の理念を社員と共有すべく、2010年に『致知』の社内木鶏会を導入。コロナ前は全支店の社員で月一回集まり、学びを深めてきました。現在も社員約170名全員の感想文を読むのが毎月の楽しみです。

     一昨年、体調を崩し、きゅうきょ手術のため入院。以降も何度か、定期検査で会社を留守にしましたが、それでも会社が揺らがなかったことは皆で『致知』に学んできた一つの成果だと自負しています。

    『致知』は、日本一の月刊誌です。念願叶って今年、岩手県の持ち家着工数で20年連続1位を達成しました。これからは地域への一層の恩返しに努め、当社が冠する恒星・シリウスの名に恥じぬよう、さらに高みを目指す覚悟です。

     

    父と『致知』が教えてくれたこと

    奈良県在住 向野幾世さん(88歳)

    『致知』との出逢いは55歳の時、奈良県初の女性校長になったことがきっかけでした。何かしら自分の心の支えになるものを探さなければと思い、学校に送られてきた広告の中から『致知』を見つけ出したのです。

     最初は難しくて分からないこともありましたが、読み続けているうちに自分を支えてくれる本として愛着が湧き、いまでは手放せない存在になりました。それは、この『致知』の教えが、父の姿と重なるように、心にみ込んできたからなのかもしれません。

     私の父は生まれつき重度脳性の障碍を持っていました。家が貧しかったため、学生時代はアルバイトに次ぐアルバイトの日々でろくに勉強もできません。本音を言えば、私は父のことをずっと恨んでいました。

     働きに出ることができない父は、いつも家で留守番をしていました。人が来ると、大急ぎでって玄関に行きます。ふすまを開けると、「ハア、ハア」とものすごい形相です。お客さんはびっくりして「しっしっ、そばに寄るな、あっちへ行け」とえらい勢いで追い払いました。

     何度もそんな情景を見た私は、聞いたことがあります。「父さん、悔しくないの? あんなこと言われて」と。父は「ちっとも悔しくない」と答えました。

     「父さんはこの体を生きるおかげで、分かることがある。玄関に訪ねて来た人は、どんな立派な服を着ていようと、立派な肩書の入った名刺を出そうと、心の値打ちの低い人がある。一方で、名刺も何もなくても心の値打ちの高い人がある。父さんは生きている間中、そういう人に出会って死んでいけるから、ちっとも悔しくない。いくも大きくなったら、心の値打ちの高い人に会っていきなさい」

    と言われました。

     私は何もしてもらえなかった、と父を恨んでいましたが、そうではなかった。ただただ合掌し続けて生きた父から、人は生かされてのみ生きるのだという人間観を教えられました。大きな大きな財産をもらっていたのだと、いまではよく分かります。

     父は76歳で亡くなりましたが、いまではその姿に『致知』を重ねて毎月大切に読んでいます。また、致知出版社の講演会にも何度も足を運び、藤尾社長のほとばしるような情熱を聞くたびに、この本を手放してはならないという思いにさせられるのです。

     2004年、『致知』の学びを共有する場として立ち上げた奈良木鶏クラブは、この11月で20周年を迎えました。今後も『致知』を自分の支えとし、学び続けていきたいと思います。

     

    よき人、よき本との出逢いが私を支え導いてくれた

    埼玉県在住 永瀬昌文さん(86歳)

      「えんじんみょう ほうしょういん

     86年の人生を振り返った時、心に湧き出るのは、安岡正篤先生のこの言葉です。縁尋機妙、よい縁がさらによい縁を尋ねて発展してゆく様は誠に妙なるものがある。多逢聖因、いい人に交わっているとよい結果に恵まれる。私の人生はまさに〝人あればこそ〟、よき出逢いあってこそのものです。

     あれは確か昭和55年のことです。埼玉県川口市で明治 11年から続く鋳物会社の社長だった私は、道元禅の研究家・ざとやくさんが鎌倉で開く坐禅会に、経営者仲間と毎月通い詰めていました。その仲間の紹介で、創刊間もない『致知』主催のセミナーに参加、藤尾秀昭編集長と名刺交換したのが『致知』との出逢いでした。

     当時42歳、届いた号を一読して「これは読み続ける価値がある」と直感しました。というのもさかのぼること10年前、会社はいざなぎ景気を受けて大企業からの受注が伸び、工場を新設するほどでしたが、その矢先に三代目の父が急逝。悲しみに浸る暇もなく、32歳の私が200人近い社員と家業を背負うことになりました。以後、社内外の様々な問題解決に奔走するもむなしく、就任6年目で会社更生法の適用に至りました。『致知』に出逢った時は事業規模を縮小し、わずかな再建の望みに懸けて休みなく働いている最中だったのです。

     会社更生法を適用した企業は、外部に経営権を譲る、資金注入を受けるのが常です。けれども私は、先祖代々の家業を断ち切るわけにいかないと、そうした誘いをすべて断りました。その支えになったのが『致知』でした。誰の言葉か定かではありませんが、  「万策尽きても望みは捨てず」「打つ手は無限」といった寸言に何度、心を鼓舞されたか分かりません。 

     再建なんて成功するはずがない、と心ない言葉も浴びました。しかし必死で踏ん張る中でよいお得意先様や従業員に恵まれ、ニッチ部品ちゅうぞうに活路を見出したことで足かけ十年、会社を再び軌道に乗せることができました。冒頭のしんげんは、心からの実感なのです。

     20年ほど前に社長を息子に譲ったものの『致知』は変わらぬ愛読書です。86歳の私の関心は、住み暮らす川口市で最も古い町・本町一丁目の発展に貢献すること、6人の子供と10人の孫をはじめ、周りの人の役に立つ生き方を100歳まで貫くこと。近隣の心ある読者と「川口木鶏クラブ」の立ち上げも考えています。

      とにかく死ぬまで自分の魂を磨いて「人生悔いなし」と感謝を述べて旅立ちたい。『致知』を片手に人生を生き切ることが、いまの私の念願です。

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