『致知』に寄せられたお客様の声

『致知』を読んでのうれしいお便りがたくさん届いています。 ご感想の一部を紹介いたします。

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    父と『致知』が教えてくれたこと

    奈良県在住 向野幾世さん(88歳)

    『致知』との出逢いは55歳の時、奈良県初の女性校長になったことがきっかけでした。何かしら自分の心の支えになるものを探さなければと思い、学校に送られてきた広告の中から『致知』を見つけ出したのです。

     最初は難しくて分からないこともありましたが、読み続けているうちに自分を支えてくれる本として愛着が湧き、いまでは手放せない存在になりました。それは、この『致知』の教えが、父の姿と重なるように、心にみ込んできたからなのかもしれません。

     私の父は生まれつき重度脳性の障碍を持っていました。家が貧しかったため、学生時代はアルバイトに次ぐアルバイトの日々でろくに勉強もできません。本音を言えば、私は父のことをずっと恨んでいました。

     働きに出ることができない父は、いつも家で留守番をしていました。人が来ると、大急ぎでって玄関に行きます。ふすまを開けると、「ハア、ハア」とものすごい形相です。お客さんはびっくりして「しっしっ、そばに寄るな、あっちへ行け」とえらい勢いで追い払いました。

     何度もそんな情景を見た私は、聞いたことがあります。「父さん、悔しくないの? あんなこと言われて」と。父は「ちっとも悔しくない」と答えました。

     「父さんはこの体を生きるおかげで、分かることがある。玄関に訪ねて来た人は、どんな立派な服を着ていようと、立派な肩書の入った名刺を出そうと、心の値打ちの低い人がある。一方で、名刺も何もなくても心の値打ちの高い人がある。父さんは生きている間中、そういう人に出会って死んでいけるから、ちっとも悔しくない。いくも大きくなったら、心の値打ちの高い人に会っていきなさい」

    と言われました。

     私は何もしてもらえなかった、と父を恨んでいましたが、そうではなかった。ただただ合掌し続けて生きた父から、人は生かされてのみ生きるのだという人間観を教えられました。大きな大きな財産をもらっていたのだと、いまではよく分かります。

     父は76歳で亡くなりましたが、いまではその姿に『致知』を重ねて毎月大切に読んでいます。また、致知出版社の講演会にも何度も足を運び、藤尾社長のほとばしるような情熱を聞くたびに、この本を手放してはならないという思いにさせられるのです。

     2004年、『致知』の学びを共有する場として立ち上げた奈良木鶏クラブは、この11月で20周年を迎えました。今後も『致知』を自分の支えとし、学び続けていきたいと思います。

     

    よき人、よき本との出逢いが私を支え導いてくれた

    埼玉県在住 永瀬昌文さん(86歳)

      「えんじんみょう ほうしょういん

     86年の人生を振り返った時、心に湧き出るのは、安岡正篤先生のこの言葉です。縁尋機妙、よい縁がさらによい縁を尋ねて発展してゆく様は誠に妙なるものがある。多逢聖因、いい人に交わっているとよい結果に恵まれる。私の人生はまさに〝人あればこそ〟、よき出逢いあってこそのものです。

     あれは確か昭和55年のことです。埼玉県川口市で明治 11年から続く鋳物会社の社長だった私は、道元禅の研究家・ざとやくさんが鎌倉で開く坐禅会に、経営者仲間と毎月通い詰めていました。その仲間の紹介で、創刊間もない『致知』主催のセミナーに参加、藤尾秀昭編集長と名刺交換したのが『致知』との出逢いでした。

     当時42歳、届いた号を一読して「これは読み続ける価値がある」と直感しました。というのもさかのぼること10年前、会社はいざなぎ景気を受けて大企業からの受注が伸び、工場を新設するほどでしたが、その矢先に三代目の父が急逝。悲しみに浸る暇もなく、32歳の私が200人近い社員と家業を背負うことになりました。以後、社内外の様々な問題解決に奔走するもむなしく、就任6年目で会社更生法の適用に至りました。『致知』に出逢った時は事業規模を縮小し、わずかな再建の望みに懸けて休みなく働いている最中だったのです。

     会社更生法を適用した企業は、外部に経営権を譲る、資金注入を受けるのが常です。けれども私は、先祖代々の家業を断ち切るわけにいかないと、そうした誘いをすべて断りました。その支えになったのが『致知』でした。誰の言葉か定かではありませんが、  「万策尽きても望みは捨てず」「打つ手は無限」といった寸言に何度、心を鼓舞されたか分かりません。 

     再建なんて成功するはずがない、と心ない言葉も浴びました。しかし必死で踏ん張る中でよいお得意先様や従業員に恵まれ、ニッチ部品ちゅうぞうに活路を見出したことで足かけ十年、会社を再び軌道に乗せることができました。冒頭のしんげんは、心からの実感なのです。

     20年ほど前に社長を息子に譲ったものの『致知』は変わらぬ愛読書です。86歳の私の関心は、住み暮らす川口市で最も古い町・本町一丁目の発展に貢献すること、6人の子供と10人の孫をはじめ、周りの人の役に立つ生き方を100歳まで貫くこと。近隣の心ある読者と「川口木鶏クラブ」の立ち上げも考えています。

      とにかく死ぬまで自分の魂を磨いて「人生悔いなし」と感謝を述べて旅立ちたい。『致知』を片手に人生を生き切ることが、いまの私の念願です。

     

    致知』は人生をよい方向へ導いてくださる心の燈

    大分県在住 金丸袈音さん(23歳)

      「人間として正しいことを正しいままに貫き、世のため人のために尽くす」

      「人生はにこにこ顔の命がけ」

     いつからか、私の人生の基盤となっていた二つの言葉。心より敬愛する稲盛和夫会長、平澤興先生のお言葉です。

     私は現在23歳で、ハーバード大学を卒業して、貿易事業を主業務とするMedia Brain㈱を経営しています。会社を立ち上げたのは、20歳になりたての頃。やるからには、少しでも世の中がよい方向に変わるきっかけになることをしたいと思っていた矢先、致知出版社のメルマガで稲盛会長の存在を知りました。これは自分の人生に必要だと直感して『致知』の購読を始め、また稲盛会長のご著書はほぼすべて読了しました。

     そこから一気に思考に磨きがかかり、自分は仕事に日々打ち込むことで魂のけんさんを行い、少しでも崇高な魂を持ってあの世に魂をお返ししようと、覚悟が決まったのです。「日本の魅力を世界の成長産業にする」という会社の大義も決まり、現在では世界40か国に独自の流通網を構築し、主に日本酒や伝統工芸品などの貿易に携わっています。

      私の人生の究極の目的は「世界に言葉を遺せる人物になる」こと。これを実現させる根底にあるのは、ただ人格、その一つのみです。

     平澤先生が21歳にて遺された次の言葉は、そんな私の心を奮い立たせてくださいます。

     「常に人たることを忘るること勿れ。他の凡俗に倣ふの要なし。人格をはなれて人なし。ただ人格のみ永久の生命を有す。

     常に高く、遠き処に着目せよ。汝若し常に小なる自己一身の利害目前の小成にのみ心を用ゐなば、必ずや困難失敗にあひて失望することあらん。

     然れども汝もし常に真によく真理を愛し、学界進歩のため、人類幸福のため、全く小我をすててあくまでも奮闘し努力するの勇を有さば、如何なる困難も、如何なる窮乏も、汝をして失望せしむるが如きことなからん。

     真の大事、真に生命ある事業は、ここに至ってはじめて正しき出発点を見出したりというべし。

     進むべき、道は一筋、世のために いそぐべからず、誤魔かすべからず」

     今後も自己研鑽に務め、少しでも世のため人のために尽くせる人物となり、崇高な魂を持ち、この世を全まっとうし、天にお返し出来るよう、精進してまいります。

     最後に、『致知』に出逢えたことが私の人生、運命を大きく好転させ、よい方向へと導いてくださる心の燈であると確信しています。『致知』という、日本になくてはならない素晴らしい存在に心より敬意を払い、感謝を申し上げます。

     

    人生のご褒美は『致知』との出逢い

    岩手県在住 佐藤昇さん(86歳)

     『致知』を読み始めて早40年が経ちます。

     岩手県宮古市の山奥に生まれ育った私は、まともな教科書もない戦後の混乱期に学校教育を受けたこともあり、若い頃はおよそ読書とは無縁の人生を歩んでいました。そんな私が、父が地元で創業した当社・沢与建設の経営を継ぐことになった時、東京の友人から「これは社長が読む本だよ」と紹介されたのが『致知』でした。昭和59年、46歳の時でした。

     初めて読んだ『致知』は、経営や人生の指針を求めていた私に大きな感動を与えてくれました。私はこの感動を一人でも多くの人と分かち合いたいと考え、毎月5冊購入してたくさんの人に紹介すると共に、仲間と一緒に宮古木鶏クラブを立ち上げて今日まで活動を続けてきました。

     当社は住宅建築や治山事業を主業務に、地元の生活環境の向上に尽力しています。東日本大震災の時には、混乱する役所と連携して直ちに現場へ急行し、震災によるれきで埋もれた道を復旧して集落の孤立を回避しました。こうした活動は地域の住民の方々から高く評価していただきました。

     これまでの体験を踏まえて実感していることは、『致知』が一貫して説くように、世のため人のために一所懸命仕事に打ち込めば、自ずと運命は必ず開けていくということです。

     この50年の間、近隣で廃業に至った同業者は実に40社以上にも上ります。一時の儲けで自分を見失い、遊興やしゃに走って会社を潰つぶしてしまう経営者は後を絶ちません。

     しかし、誠実に仕事に打ち込めば、目に見えない応援を様々にいただける。

     松下幸之助さん、稲盛和夫さんをはじめ、『致知』に登場される一流の方々が各々のご体験を踏まえて異口同音におっしゃっていることです。

     平成5年には、当社を育んでくれた地元へのご恩返しのため、「夢灯り」というイベントを立ち上げました。千個のキャンドルスタンドで地元を照らすこの催しは、思いがけず今日まで30年続き、地元振興に何某なにがしかの貢献を果たすことができました。公私にわたり充実した人生を送ることができたのも、『致知』に学んできたおかげです。

      「人生のご褒美は、あなたとの出逢い」

     私は名刺にこの言葉を記し、ご縁の大切さを銘記してきました。その意味では、私を導いてくれた『致知』との出逢いは最高の人生のご褒美といえます。私はこのかけがえのないご縁に感謝し、これからも『致知』に学び続けてまいります。

     

    『致知』を通して美しい心を広めたい

    愛知県在住 小見門みよ子さん(55歳)

     約3年前、新聞広告に『致知』が載っていた。ひと目見て「読んでみたい」と直感したが、購読するか迷った。教育者や経営者のような立派な人の話が、どれほど自分に理解できるだろうか? 購読料を無駄にしてしまうのではないかと悩んだからだ。しかし、一冊の中のたとえ一部分しか分からなくても、この雑誌を読みたいと思い、購読を決めた。

     いざ手にとってみると、その内容に感心したり涙したり、素晴らしい雑誌であることに感動した。もっと早く知っておきたかったと思った。いまでは毎月手元に届く『致知』が楽しみで仕方がない。

     私は書道をしていて、気に入った言葉があると書いて飾ったり、人に贈っている。両親にも『致知』で出逢った言葉を贈った。すると父は「俺は創刊された頃からずっといまも読んでいるぞ、『致知』はいい雑誌だ」と言い、驚いた。

     父は祖父から受け継いだ個人商店を30年間経営する中で、『致知』を支えにしてきたのだと知った。いまでは父は、私の『致知』仲間で「今月の対談はどれがよかった」など親子の会話が増えた。

     私は『致知』を読み始めたのと同時期に長年勤めた仕事を辞め、幼稚園の保育補助に転職した。新しい職場で、 まったく出なくなったのは、ずっと就きたいと思っていた仕事だったこともあるが、『致知』で学んだ稲盛和夫さんの言葉の影響が大きい。

     幼稚園での研修の際、出された課題で私は「人間力を上げる」をテーマに『致知』のことをレポートに書いた。それを読んだ園長にどんな雑誌かと聞かれ、紹介すると、さっそく「私も年間購読します」との言葉が返ってきた。園長にもぜひ読んでいただき、園でも木鶏会を開いてもらいたいと願っている。

     成人した3人のわが子にもそのうち自分で購読してほしい。『致知』を通じ、美しい心が広がっていくことを願っている。

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