無にならないと師の教えは掴めない(境野勝悟×安田登)

分野は違えど、共に古典や先人の教えに出合い、人生・仕事の基礎を築いてきた東洋思想家の境野勝悟さん〈写真左〉と、下掛宝生流ワキ方能楽師の安田登さん〈写真右〉。禅と能——それぞれの道を究めてきたお二人に、人生を変えた先人の教えや言葉を語り合っていただきました。「教え」はどうすれば自分のものにできるのか

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体で掴んだ〝生〟の解釈

〈安田〉
言葉ということで申し上げますと、私は能の稽古を通して『論語』の言葉の意味に気づいたことがあるのです。

〈境野〉
ほう、それはどういうことですか。

〈安田〉
先にお話しした通り、私は千葉県で教員をやっていた頃に能を始めましたが、なるだけ東京に近い場所に住んで土日には師匠のお宅に稽古にお邪魔させていただきました。だけど、師匠は能について説明は全くしてくれないのです。酷い時には8時間ぶっ通しで謡わされる。師匠はその場からいなくなりますが、遠くで聞いているからさぼることもできない(笑)。

不思議なもので、出なくなった声は、続けていると再び出るようになります。だけど、その厳しい師匠に就いたおかげで、『論語』学而篇の冒頭の言葉「学んで時に之を習う、また説ばしからずや(学而時習之、不亦説乎)」の意味が初めて分かりました。

この「学」とは、手取り足取り教わり、自分でも手足や全身、五感をフルに使って何かの真似をすること、即ち身体を使った学びのことを言います。

次の「而」、これは学校の授業では「置き字」と無視されることがありますが、実は非常に重要な意味を持つんです。簡単に説明すれば、しかるべき時間の経過です。能の世界でも苦しくて辛い稽古を何年、何十年と続けなくてはいけない。

私の話で恐縮ですが、40年間、師匠のもとで修業に励みながら、たったの一度も褒められたことはありません。いつも「駄目だ」という言葉ばかり。しかし、その奥底で何かが静かに変容している。確実に実力が培われている。そんな魔術的時間の経過を示したのが「而」という字なんです。

〈境野〉
「而」が時間の経過なんて、そんな解釈をされたのは先生だけだと思います。

〈安田〉
それから「時」という文字には、流れゆく時間を一瞬、ガッと掴むという意味があります。ただの時ではなく、「いまだ」というタイミングですね。師匠はその時を見計らって弟子を舞台に立たせてくれる。「習」は鳥がバタバタと飛び立つ様を表現した文字で、能でいえば厳しい稽古を経て舞台に立ってゆったりと舞う。まさに「説」、悦楽の瞬間です。

〈境野〉
いやー素晴らしい。頭で考えた解釈ではなく、安田先生が厳しい稽古を通して体で掴まれた生の解釈ですね。やはり行を通して掴んだものは強い。僕にはそれがよく分かります。それにしても、40年間、一度も褒められない中で、よくぞふて腐れもせずに稽古を続けてこられましたね。

〈安田〉
師匠が私を褒めなかったのは、師匠が常に進歩していたからだと思います。ご自身も亡くなるまで舞台を続けられましたからね。褒めるというのは、自分がそこに留まっていることです。その日、よいと感じても、その先もよいとは限りません。

〈境野〉
師匠も同じ修業者という思いで稽古を続けられたわけですね。

〈安田〉
はい。いま思うと、そのことがよく分かります。私が能を辞めなかった理由の一つは、勉強ができなかったからでもあるんです。高校入学時、学年450人中、成績は後ろから二番目でした。しかも、最後の生徒とは一点差。自分は大した人間ではないという思いが、いまもどこかにあります。だから、ある意味では傲慢にならずにここまで歩いてくることができたのかもしれません。

弟子入りした当時、私は師匠の指導に納得できず、「自分だったらこうやるのに」と思っていました。しかし、これは思い上がりだと途中で考え直しました。無にならないと師匠の教えが分からないことに初めて気づいたんです。それからは稽古の時は、自分を捨てることを常に心掛けてきました。
「おまえたちは素人ではない。素人は100%を目指す。玄人は100%から始まるんだ」と教えられたことも、懐かしい思い出です。


(本記事は月刊『致知』2021年9月号 特集「言葉は力」より一部を抜粋・編集したものです)

◉「禅」と「能」——日本古来の哲学・文化をその身をもって究めてきた境野さんと安田さん。
 二人が敬愛する歴史の人物に、松尾芭蕉がいます。若き日、武士として生きることを諦め、命懸けの漂泊の旅を通して俳諧を突き詰めていった〝覚悟の人〟。
 その創作と人生への覚悟を、お二人に「禅」と「能」の視点から語り合っていただきました。
 『致知』2022年8月号 対談「松尾芭蕉の歩いた道」
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