2022年06月26日
俳聖・松尾芭蕉の句「古池や 蛙(かわず)飛こむ 水のおと」はとても有名ですが、この句には〝人間の生き方〟〝有限の生命〟にも及ぶ芭蕉の深い思想が込められているようです。歴史に残る秀句を数多く残した芭蕉が求めた世界とは、どのようなものだったのか。東洋思想家の 境野勝悟(さかいの・かつのり) さんのやさしい解説が、よく知られた一句に新鮮な気づきと学ぶ喜びを与えてくれます。
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人が本来持っている働きを、なぜ生かさないのか
〈境野〉確か大学3年生の時だったと思います。1つ上の先輩から「これを読めよ」と勧められたのが鈴木大拙先生の『禅と日本文化』という本でした。
私が禅の教えに触れたのはこれが最初でしたが、禅が茶道や俳句など幅広い日本文化にも影響を与えたことに興味を覚えながら読み進めると、そこには少年の頃から慣れ親しんだ芭蕉の句が紹介されていました。
古池や 蛙飛こむ 水のおと
山の中の静かな古池に蛙が飛び込んだ。ポチャンという音が静寂を破り、しばらくするとさらなる静寂が広がった。それまでの私はこの句をそう解釈していました。
ところが、大拙先生の解説はそれとは全く違っていたのです。
大拙先生は古池を永遠なる自然の生命の象徴と捉えられました。そして蛙が飛び込むポチャンという音は、永遠の生命から比べれば一瞬に過ぎない人間の一生。つまり、一瞬に過ぎない二度とない人生の時間を嘆き悲しみながら過ごすことの虚しさ……。
逆に生を惜しみ感謝しながら生きることの大切さを説いたのがこの句だというのです。
数多い動物の中で私たち人間だけが花を愛で、音楽を聴き、小説を読み、新幹線や飛行機で旅をして人生を謳歌する喜びを知っています。そういう人間の素晴らしい働きを、なぜもっと生かして人生を意義あるものにしないのか。自分にとって大切なのは、いまこうして生きているということではないのか。
これが芭蕉の根底にある考えです。
その人生観を知った時、私はとても驚き、心が震えました。坐禅に取り組んでみようと思ったのは、実はこの時が最初でした。
見捨てられたものに価値を見出す
あまり知られていないことですが、芭蕉は鎌倉時代の禅僧で曹洞宗を開いた道元(どうげん)禅師(1200~1253)の思想的影響を受けた俳聖です。芭蕉は伊賀(いが、現在の三重県)に生まれ、37歳の時に江戸に出て深川に芭蕉庵という庵を結びます。
その頃、広く世にその名を知られていた名僧・仏頂(ぶっちょう)和尚に禅の知恵や生き方を学ぶためでした。先ほどの「古池や……」は、芭蕉が大きな悟りを得た頃の句で、人生の捉え方が大きく変わったことがよく分かります。
大悟(たいご、深く大きな悟りをひらくこと)した芭蕉が、その時に「私が大事にする風雅とはこういうものだ」と述べて綴ったのが次の句です。
枯枝に 烏のとまりたるや 秋の暮
カラスについて、皆さんはどのようなイメージを抱かれるでしょうか? 自身の美意識の中にカラスが存在しているという人は多くないはずです。それまでの詩歌の世界でウグイスやホトトギスをうたう人はいても、カラスを題材にした人はまずいませんでした。
しかし、芭蕉は枯れ枝にカラスが止まっている背後に、極楽浄土を思わせるような真っ赤に燃える秋の夕景を重ねることで、金屏風に描かれた墨絵を彷彿とさせる美しさを見事に発見したのです。
つまり、芭蕉は皆が嫌って価値を認めない、見捨てられた生存の中に美を見つけ出したのです。新しい価値を見出すことのできる達人という言い方もできるでしょう。
現代人の多くは、世間的な価値観の中で生きています。時には自分の考えを曲げてでも世間的な価値観に合わせて生きようとします。高等教育を受け自立した生活を送りながらも、なお本当に自分がやりたいことは何か、何が価値あることなのかを考えないまま生きている人が多くいます。
もちろん、世間の価値観で生きることは悪いことではありません。
しかし、いざ世間の価値観と合わなくなった時、自分が果たしてどう生きるかを考えておくことも大事ではないかと私は思います。
芭蕉は世間が見捨てたものの中に価値を見出しました。自身も武士という生き方を捨てて、41歳から51歳までは各地を漂泊して旅し、多くの句や紀行文を残しました。
私は「枯枝に……」の句に触れる時、「俺の生き方だってそうなんだぞ。自分の価値観で力強く生きているぞ」という芭蕉の誇り高き声が聞こえてくるのを感じます。
(本記事は月刊『致知』2020年4月号 特集「命ある限り歩き続ける」から一部抜粋・編集したものです)
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◇境野勝悟(さかいの・かつのり)
昭和7年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、私立栄光学園で18年間教鞭を執る。48年退職。こころの塾「道塾」開設。駒澤大学大学院禅学特殊研究博士課程修了。著書に『日本のこころの教育』『方丈記 徒然草に学ぶ人間学』(共に致知出版社)『芭蕉のことば100選』『超訳法華経』(共に三笠書房)など多数。