【追悼】「神の手を持つ男」福島孝徳氏は、なぜ世界一の脳外科医になったのか

神の手を持つ男と呼ばれる脳外科医・福島孝徳さんが2024年3月19日、アメリカで亡くなられました。81歳でした。弊誌にもたびたびご登場いただき、溢れんばかりのエネルギーで医の道に懸ける思いを語っていただきました。福島さんのご冥福を心よりお祈りすると共に、弊誌に語っていただいたその外科医としての原点をご紹介します。

※対談のお相手は、多数の病院やリハビリテーション施設を展開する「南東北グループ」総長・渡邊一夫さんです。

鍵穴手術はかくて生まれた

〈渡邉〉
福島先生は私と違って最初から医学部を目指していたわけですけれども、その根底にはやはりご両親の影響が大きいんじゃないですか。

〈福島〉
そうです。私はいろいろな人に助けられてきましたけど、やっぱり両親ですよ。父と母の恩がありますね。

私の父は2003年に亡くなりましたけど、明治神宮の宮司として64年間奉職していました。戦争で全部焼けてしまった明治神宮を元どおりに復興した人で、引き出物の会社をつくったり、明治記念館にレストランの会社をつくったりといろいろなことをやっていました。

〈渡邉〉
お父さんも働き者だ。

〈福島〉
まあ、明治神宮に一生を捧げたので、家族の面倒は全く見なかったですね。私は父にどこかに連れて行ってもらったとか、一緒に食事したとか、一切ないです。

ただ、明治生まれの人でしたから「孝徳、背筋が曲がっている」と礼節については厳しい教育を受けました。父からとにかく言われたのは「金のために働くな。世のため人のために働きなさい」と。

母は、とにかく可愛がってくれましたね。私は小学校2年の時に野口英世の伝記を読んで、世界に出る医者になろうと思った。で、中学、高校時代ちょっとグレかけた時に「人間は初志貫徹が一番大事」と諭されました。だから、母がいなかったら私は医者になっていません。

それとやっぱり叔父の影響も強いですよ。叔父は東京・新小岩で内科医をやっていたんですが、患者さんに物凄く親切で、もう夜でも日曜日でも患者さんを診ていましたね。

私は遊びまくっていたから大学受験に滑ったんですけど、ある日、叔父に「このまま不良を続けてヤクザになるのか、それとも改心して医者になるのか。いまここではっきりさせろ」と詰め寄られたんです。

それで本気で医者を目指そうと。それからは毎日叔父の監視のもとに勉強させられて、そのおかげで東大医学部に入ることができました。

〈渡邉〉
素晴らしい巡り合わせですね。

〈福島〉
研修医を終えて、警察病院の脳外科の勤務医となってからは昼間は診察、夜は顕微鏡操作をマスターすることに打ち込みました。自宅に帰るのは月一回。着替えの下着を段ボールに入れて病院に置いて、24時間住み込みのような毎日でした。

それで、27歳の時ですが、宿直を務めていたある夜に、10歳の男の子が運び込まれてきたんです。当時はCTもMRIもありませんから、頭が痛いと泣き叫んでいる原因が分からない。

その時に内視鏡検査に用いるファイバースコープで頭の中も覗けるのではないかと閃いたんです。学生時代、がんセンターに入り浸って、胃カメラなどに慣れ親しんでいたことが役立ちましたね。頭蓋骨に小さな穴を開けてファイバースコープを入れる時は手が震えるほど緊張しましたが、結果は大成功。少年の腫瘍を全摘出することができたんです。

それが3年後に国際学会で発表され、海外で大きな反響を呼びました。かねてから外国で勉強したいという思いもあり、それで30歳の時にドイツへ2年、アメリカへ3年間留学したんです。

〈渡邉〉
その27歳の時の体験が鍵穴手術の原点なんですね。

〈福島〉
実際に鍵穴手術を確立したのはその10年後くらい、三井記念病院にいた頃です。

結局、頭蓋を大きく開いても手術では僅かな部分しか処置しない。だから必要最小限度の穴を開けて、手術を行おうと。その穴は1ミリでも小さいほうが患者さんの体に負担をかけずに済むんです。

最初私が開けていた穴は500円玉くらいの大きさはありました。それを小さくしていく上では並々ならぬ努力を要しましたよ。それがいつしか10円玉となり、1円玉となり、いまでは5ミリあれば手術をすることができます。

誰にも負けない努力がすべての根本

〈福島〉
私は若い時からとにかく、日本一、世界一になりたかった。そのためには普通のことをやっていたらダメなんで、「人の2倍働く」「人の3倍努力する」という方針でやってきました。普通の人が寝ている間、休んでいる間に差をつけると。

そういう姿勢で若い頃から腕を磨いてきたんですけど、いま71歳(取材当時)になってみると、人生は短い。私に残された時間はもう少ない。だから、一刻も無駄にできないんです。

〈渡邉〉
いまは年間どのくらい手術をされているんですか?

〈福島〉
600回ですね。一番の盛りは三井記念病院にいた43歳の時で、900回はやっていました。

私は人間の年齢には暦の上の年齢と、生理学的な年齢の二つがあると思っているんです。私が本当に感心するのは、経団連の会長をされていた土光敏夫さん。80を過ぎても矍鑠としていましたよね。素晴らしい人でした。

で、いま世界でも、例えばモスクワの国立ブルデンコ脳神経センターというところは脳外科だけで2000床もあるんですが、ここの総帥がコノバロフという人で83歳のいまも毎日手術をしている。

〈渡邉〉
ああ、そうでしたか。それは凄い。

〈福島〉
それからローマ大学のカントーレという教授、彼もいま83ですけど、手術をしています。

私自身、手術に関してはいまだにマスターチャンピオンですよ。目と手は全然若い人に負けない。だからあと10年は大丈夫じゃないかなと思っています。

これにはやっぱり天性の才能が少なからずあると思うんですけど、それ以上に膨大な数をやっています。だから、私はいつも言うんですけどね、人生は一に努力、二に努力、三に努力、全部努力なんですよ。他の人が信じられないような努力をして、経験を積む。

それから本当はいいコーチがいなきゃいけない。オリンピック選手を見ていても、皆が類い稀な技量を備えている中でどこに差が生まれるか。コーチですよ。

〈渡邉〉
なるほど。でも、福島先生にコーチはいないでしょう?

〈福島〉
いや、私は若い頃、ちょっと暇があれば、世界中の名医を訪ねて回りましたから。

いまでもそうです。毎日勉強しています。あの天才ミケランジェロが残した有名な言葉が「ラーニングアゲイン」。ルネサンス期に世界一の絵と彫刻を生み出していても、いまだに日に日に勉強しています、と言った。

だから日に日に勉強して、日に日に努力して、渡邉先生も同じだと思うんだけど、毎日仕事しています。休んでいられないですよ。私は土日と祭日も一切休まない。夏休み、冬休み、一切取らない。毎日働くのが趣味なんです。


(本記事は月刊『致知』2014年2月号 特集「一意専心」一部抜粋・編集したものです)

◇福島孝徳(ふくしま・たかのり)
昭和17年東京生まれ。43年東京大学医学部卒業後、同大学医学部附属病院脳神経外科臨床・研究医員。ドイツのベルリン自由大学Steglitzクリニック脳神経外科研究フェロー、米国メイヨー・クリニック脳神経外科臨床・研究フェローを経て、53年東京大学医学部附属病院脳神経外科助手。55年三井記念病院脳神経外科部長。平成3年南カリフォルニア大学医療センター脳神経外科教授。10年カロライナ頭蓋底手術センター所長およびデューク大学脳神経外科教授。著書に『ラストホープ福島孝徳』(徳間書店)など。

◇渡邉一夫(わたなべ・かずお)
昭和19年福島県生まれ。46年福島県立医科大学卒業後、秋田大学文部教官助手、長尾病院脳神経外科部長を経て56年福島県郡山市に「南東北脳神経外科病院」を開院。以来、脳疾患が多い東北地方にいち早くCTMRI器機を導入する。平成3年北京大学客員主任教授。16年福島県立医科大学臨床教授、藤田保健衛生大学臨床教授。20年最先端のがん治療である「南東北がん陽子線治療センター」を民間病院として世界で初めて開設する。著書に『南東北グループの挑戦』(現代書林)など。

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