2024年08月10日
第二次世界大戦末期、祖国日本、そして愛する人を守るために、沖縄の海に消えていった陸軍特別攻撃隊(特攻隊)の若者たち。彼らが後世の私たちに伝えたかったことは何なのか。「知覧特攻平和会館」の語り部を長年務めてきた川床剛士さんの語りでお届けします。戦後79年が過ぎたいま、深く思いを馳せたいものです。
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遺書が教える愛と感謝の大切さ
〈川床〉
知覧特攻平和会館には、特攻隊員たちの大きな遺品室があり、出撃戦死した順に遺影と関連する遺書や手紙を5千点ほど展示しています。彼らの手紙や遺書を分類すると、特攻隊としての使命感に溢れたもの、家族・愛する人への感謝の念、同僚への友情、現在の心境を綴ったものに概ね分けることができます。
その中から、どういう思いで特攻隊員たちが飛び立っていったのかがよく伝わってくるものをいくつかご紹介します。
1945年4月12日に出撃し、23歳で戦死された福島県出身の穴澤利夫大尉には、将来を約束した智恵子さんという婚約者がいました。穴澤大尉が最期に書き遺した智恵子さんへのラブレターには次のような一節があります。
「あなたの幸せを希ふ以外に何物もない。徒に過去の小義に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。勇気を持って、過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。智恵子、会ひ度い、話し度い、無性に。今後は明るく朗らかに。自分も負けずに、朗らかに笑って征く」
智恵子さんは、穴澤大尉が戦死された4日後にこのラブレターを受け取りました。ラブレターの最後に「智恵子、会ひ度い、話し度い、無性に」とあります。これが穴澤大尉の本当の心だったのだと思います。このような悲しみを2度と繰り返してはなりません。
宮城県出身の相花信夫少尉は、少年飛行兵として1945年5月4日に出撃し、18歳で戦死されました。相花少尉には8歳ほど歳の離れた兄がおり、4歳の時に母親が病気で亡くなっています。
父親は子育てが大変だということで、相花少尉が6歳の時に再婚。兄は新しい母親にすぐに馴染んだのですが、相花少尉は実の母親への思いが強くなかなか親しくなれませんでした。しかし、その相花少尉が、出撃する前日に新しい母親に次のような遺書を認めました。
「母上御元気ですか。永い間本当に有難うございました。我六歳の時より育て下されし母。継母とは言え世の此の種の女にある如き不祥事は一度たりとてなく、慈しみ育て下されし母。有難い母 尊い母。俺は幸福だった。
遂に最後迄『お母さん』と呼ばざりし俺。幾度か思い切って呼ばんとしたが、何と意志薄弱な俺だったろう。母上お許し下さい。さぞ淋しかったでしょう。今こそ大声で呼ばして頂きます。お母さん、お母さん、お母さんと」
家族に向けた遺書はたくさんありますが、ほとんどが母親に対する思いであり、父親のことはあまり出てきません。昔の父親は本当に厳しく、間違ったことをすれば口よりも手や足が早く出る近寄り難い存在でした。
その一方で、母親は父親に言えないような子供たちの不平不満を、優しく包み込むように諭してくれました。また、戦前の貧しい生活の中でも、母親は自分の食べ物を子供たちに与えて懸命に育ててくれたものです。
特攻隊の青年、少年たちも、本当に自分に深い愛情を注いでくれたのは母親だという思いがあったのでしょう。彼らの遺書を読むと、いまを生きる私たちはどれだけ母親、家族に対して日々感謝をしているだろうか、大切にしているだろうかと思わざるを得ません。
それから、1945年5月24日に戦死された愛知県出身の久野正信中佐。彼は爆撃機の機長で、年齢は29歳、4歳の男の子と2歳の女の子を持つよき父親でもありました。久野中佐は子供たちに向けて片仮名の遺書を綴られています。おそらく、幼い子供たちに少しでも早く父親の思いを伝えたいと、国民学校で最初に学ぶ片仮名を選ばれたのでしょう。
「正憲、紀代子ヘ 父ハ スガタコソミエザルモ イツデモオマヘタチヲ見テイル。ヨクオカアサンノイヒツケヲマモツテオカアサンニ シンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシテオオキクナツタナレバヂブンノスキナミチニススミ リッパナニッポンヂンニナルコトデス。ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。
『マサノリ』、『キヨコ』ノオトウサンハ、カミサマニナツテフタリヲヂット見テヰマス。フタリナカヨク ベンキョウヲシテオカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトウサンハ『マサノリ』、『キヨコ』ノオウマニハナレマセンケレドモフタリナカヨク シナサイヨ(後略)」
母と子、父と子……親子の情愛や絆の尊さを教えてくれるのも、特攻隊の遺書の大きな特徴です。
(本記事は月刊『致知』2019年8月号 特集「後世に伝えたいこと」よりから一部抜粋・編集したものです)
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◇川床剛士(かわとこ・たけし)
昭和15年鹿児島の知覧町生まれ。昭和38年3月防衛大学校を卒業後、陸上自衛隊に任官し指揮官、幕僚、教官職等を歴任。定年退官後は、地元企業を経て平成12年10月から知覧特攻平和会館の語り部として従事。