2018年06月12日
絶対に不可能といわれた無農薬・無肥料のりんご栽培を奇跡的に成功させ、現在は日本の農業を変えるべく奔走するりんご農家の木村秋則さん。しかし、その道のりは、度重なる失敗、周囲からの非難など、「茨の道」という言葉以上に辛く厳しいものだったといいます。そんな木村さんに、無農薬・無肥料のりんご栽培成功への道のり、越えてきた試練についてお話を伺いました。
茨以上の道を歩む
木村さんが無農薬・無肥料のりんご栽培を実現しようと思い立ったのは、農薬を散布していた妻が肌に炎症を起こしたことがきっかけだったといいます。
「そもそも私が無農薬、無肥料のりんご栽培を思い立ったのは、女房のためでした。当時はいまみたいにいい雨合羽がなかったから、農薬を散布すると体に染み込んで火傷みたいな炎症を起こすんです。
これではいけないと思って、散布する回数を少しずつ減らしながら、農薬を使わない道を一所懸命模索していたのを親父は見ていたんです。こいつはダメだと反対してもきっとやるに違いないと思ったって、後から話していました。それで、早速その年から農薬と肥料をやめることにしたんです」
しかし、これまで誰もやったことのない新しい道を歩み始めた木村さんの前に想像を絶する様々な困難・逆境が立ちはだかります。
りんごの木が病気に見舞われて葉っぱがどんどん落ちる、虫がどんどん湧いてくる、2年目にはリンゴの木に花一つ咲かなくなる、5年目には幹がぐらぐらと揺れるようになる……。
木村さんはどうしたらよいのかも分からず、「答えを教えてくれ」とりんごの木に祈るように語り掛けたそうです。そして、周囲からも陰口や非難の言葉を浴びせられ、木村さんは次第に金銭的にも精神的にも追い詰められていきます。
「パチンコの店員とか、キャバレーの呼び込みとか、いろんなアルバイトをやってなんとか食い繋いでいました。周りからは、『あいつはかまど消し(一家を破産させる)だ』と陰口を叩かれて、挨拶もしてもらえないの。
私だって命懸けで挑んでいるんだけど、親戚にまで『ろくでもねぇ婿だ』と罵られて、親父には随分恥をかかせてしまいました。
茨の道という言葉があるけれども、新しい道を歩むっつうことはよ、茨以上ですよ」
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死を覚悟した中で掴んだ光
そして、追い詰められた木村さんは遂に死を覚悟し、首をくくろうと、近くの山に分け入っていきました。しかし、その極限の苦しみの中で、木村さんは完全無農薬・無肥料栽培のヒントを掴み取るのです。
「人間っておかしくてさ。りんごが実らなくて、生活もどん底になって、悩みだらけなのに、一度首をくくるという気持ちになったら、悩みも何もなくなって、周りがやけに綺麗に見えるの。
で、どこをどう歩いたか分からないけど、どんどん山奥に入っていって、川を越えたところに、桜の木があったんです。ちょうどいいと思ってロープを掛けて、ドンと跳ねたら、足が地面についてロープがたるんでるわけ。まったく、どこまでドジなんだろうと(笑)。
その時ふと、5、6メートル先にりんごの木があったのな。本当はどんぐりの木だったんだけど、なんだか光って見えたので側へ行って見てみたら、葉は厚いし、虫もほとんどついていないんです。
なんでこんなに元気に育ってるんだろうと不思議に思って辺りを見たら、草が自由に伸びていて、熊のうんちの臭いがいっぱいするわけよ。
『これだ!』と思って、もう死ぬのも忘れて一気に山を駆け下りました。ここの土と自分の畑の土を比べてみようと思ったんです。
どんぐりの木の周辺には、いろんな草が自由に生い茂っていて、そのおかげで土壌がとても豊かになっていました。元気のもとはその土だったんです」
その気づきから、木村さんは畑の土壌改良を進め、試行錯誤を始めてから10年目、完全無農薬・無肥料栽培を成功させるのでした。
木村さんの道のりから、どんなに苦しくとも、周囲からどんなに理解されなくとも、最後の最後まで諦めずに自分の道を歩んでいくことが、成功を掴む要諦だということを教えられます。
(本記事は『致知』2018年7月号特集「人間の花」【最新号】より一部抜粋したものです。各界一流の方々が多数ご登場の最新号はこちらから)
木村秋則(きむら・あきのり)
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昭和24年青森県生まれ。高校卒業後、企業勤務を経て、46年よりりんご栽培を中心とした農業に従事。農薬で家族が健康を害したことをきっかけに、53年頃から無農薬・無肥料栽培を手掛ける。10年近くにわたる試行錯誤を経て、完全無農薬・無肥料のりんご栽培に成功。現在、りんご栽培のかたわら、国内外で農業指導を続けている。 著書に『自然栽培ひとすじに』(創森社)『リンゴの花が咲いたあと』(日本経済新聞出版社)など。