「ああ、きょうも生きて帰ってこられた」 執筆期間37年の大長編を書き上げた作家・宮本輝の人生を支えるもの

デビュー作は太宰治賞、2作目で芥川賞を受賞――日本の純文学を代表する作家として活躍し、今年春の叙勲では旭日小綬章を受章された宮本輝さん。「85歳まで書き続け、100篇の長編小説を残す」という一念を掲げて執筆活動を行ってきた宮本さんですが、その青年期は波乱万丈なものでした。致知』2020年12月号にもご登場いただいた氏の人生観・仕事観の原点を、2012年掲載の秘蔵インタビューからご紹介いたします。

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50を過ぎた人間の情熱しか信じない

――小説『水のかたち』の中で登場者たちは「50代になってこのままでいいのだろうか」という不安を抱きますが、先生も50代の頃にそのような思いを持たれたのですか。

〈宮本〉
いや、僕は早く50になりたかったですから。50になった時、「ついに50になったぞ」と。

――なぜですか。

〈宮本〉
昔、ある人から「俺は50を過ぎた人間の情熱しか信じない」と言われたことがあるんです。35歳の時でしたけれど、その時は意味が分からなかった。まるで35歳の自分が否定されたような気がしてね。しかし、絶対に50になってみないと、この人が言っている意味が分からないだろうとも思いました。

それで48歳の時に阪神・淡路大震災です。私は関西を拠点にしていますから、家も壊れました。死んだ気になって、一生行けないかもと思っていたシルクロード6,700キロの旅にも出ました。それでも「50を過ぎた人間の情熱しか信じない」という意味は分からなかったですね。

で、いよいよ50歳になる直前ぐらいになって、ようやく「ああ、そうか」と。50年ですから、どんなに平々凡々に暮らしてきた人でも、やっぱりいろんな経験をしていますよ。思いどおりにいかないことばっかりだっただろうし、病気もしただろうし、人に裏切られたこともあるだろうし。そうやって生きてきた人間の持つ「力」というものがあるんですよ。

――また、そういう人生経験を経て、なお50歳を過ぎても燃え滾る情熱があれば、それは本物だと。

〈宮本〉
そうとも言えるかな。

僕は子供の頃から人よりいろいろな経験をしてきたと思っていました。父親が事業に失敗して貧乏したり、女性問題を起こしたり、それで母親がアルコール依存症になったり。最期は愛人のところで倒れて、僕が親父の借金を背負うことになって浪速の金融王みたいな連中から逃げ回ったこともあります。

作家になった後も病気になったりと、まあ濃い人生を送ってきたと思っていましたが、やっぱりまだまだ洟垂れ小僧だったなと思いましたね。

人は一度、人生を賭けた勝負をしなければならない

――そういった波乱の半生を送りながら、作家になろうと思われたきっかけを教えてください。

〈宮本〉
サラリーマン2年目の時に、ある日突然、いまでいうパニック障碍になったんです。いまみたいに精神的な病に対して世間が寛容じゃない時代でしたし、精神科に行くなんていうことは会社を辞めることを意味していました。

また、僕自身もそれが心の病だと知らなかったしね。血圧が高いのか低いのか、脳に何か原因があるのか、あるいは心臓が悪いのか。内科に行ったり、脳外科に行ったり、耳鼻科まで行って、もうありとあらゆるところへ行ったのですが、精神科だけには行かなかったんです。

そうしているうちにどんどん症状が強くなってきまして、まともに会社に行けなくなりました。まず電車に乗れないし、人ごみも、地下街もダメ。大阪の梅田のど真ん中に会社がありましたが、もう行けませんよ。行けたとしても、会議室がダメ、エレベーターもダメ。もう辞めるしかないですよね。

ある日、死ぬ思いで放送局で打ち合わせをして、その帰り道、突然土砂降りの雨が降り出しました。雨宿りのために近くの本屋さんに入ったところ、みんな雨宿りをしていたようで、とにかく凄い人ごみだった。

入り口付近にしかスペースがなくて、ちょうどそこに文芸誌があったんです。雨はしばらくやみそうもないし、それを手に取り、巻頭の短編を読みました。有名な文芸誌で、その巻頭を飾るくらいだから素晴らしいものだろうと思って読んだけれど、最後まで読めませんでしたね。

――というのは?

〈宮本〉
つまらなくて。へえ、これでこの人が作家として食っていけるなら、俺は明日にでも作家になれるなと(笑)。でも、そこで「ああ、そうか。作家になれば電車に乗らんでええし、会議にも出なくてええな」と。よし、作家になろうと思って会社を辞めたんです。

といっても、作家になるまでには3年間はかかりましたが。

――その間、支えになったものはなんですか。

〈宮本〉
まあ、妻が明るかったから、それには救われたね。「あなたなら絶対になれるわよ」って、本当に信じていました。

それで、デビュー作にあたる『泥の河』を書いている最中から咳が出始め、段々息をするのも辛くなってきました。次第に一度横になるとしばらく起き上がれないような疲労感と倦怠感に襲われるようになって、夕方になると熱が出るんです。どんどん咳も酷くなって、ある時血を吐いたんですよ。あ、これは結核だなと。

だけどいま病院に行ったら、絶対に強制入院させられる。一応の目途をつけてから行こうと思ったんです。

――目途というのは?

〈宮本〉
要するに、芥川賞を取ってから行こうと。でも、芥川賞だけじゃダメだ。芥川賞は作家の世界へのパスポートをもらったにすぎない。実際、芥川賞をもらってそれっきりという作家は山ほどいますから。そうすると、もう一作、しっかりした作品を書いてからじゃないと病院には行けないなと。

それで『泥の河』を書き上げ、続いて書いた『螢川』で芥川賞を受賞、次作『幻の光』を書いて、直ぐに病院に行きました。当然即刻入院です。明くる日、保健所の人が家中消毒に来ましたよ(笑)。

――いずれも映画化もされた宮本作品の代表作です。その時期は作家になるために、まさに人生を賭けた勝負をされたわけですね。

〈宮本〉
勝負でしたね。だって、電車乗れないし、エレベーターにも乗れないんですから。パニック障碍の非常に強い発作が出ている時の恐怖は、これは罹った人しか分かりませんよ。毎日死にに行っているようなものです。家に帰ってきて

「ああ、きょうも生きて帰ってこられた」

と。もう小説家になるしかなかった。だから「血を吐いたから、はい、病院へ」なんて、そんな悠長なことを言っていられないですよ。

――そしてその勝負で見事勝利を収めたと。

〈宮本〉
まあ、ストーリーとしてはそういうことです。でも、みんなそういう時が人生にありますよ。学者をしていても、商売をしていても、ここは人生懸けてなんとか乗り越えなあかんという時が必ずある。そして、その勝負に打ち克ち、乗り越えて初めて道が拓ける。ずーっと順風満帆なんていうことはあり得ませんよ。


(本記事は月刊『致知』2012年11月号 特集「一念、道を拓く」から一部抜粋・編集したものです)

◉宮本輝さんが2020年12月号にご登場! 『流転の海』シリーズが完結を迎えての心境と共に、人生の山坂を越えて掴んだ心術について、10ページにわたってご対談いただいています。詳しくはこちら

◇宮本 輝(みやもと・てる)
昭和22年兵庫県生まれ。45年追手門学院大学卒業後、広告代理店入社。重度のパニック障碍となり、退職。作家を目指す。52年『泥の河』で太宰治賞を受賞し作家デビュー。翌53年『螢川』で芥川賞を受賞。一時結核療養のため休筆。『優駿』で歴代最年少40歳で吉川英治賞を受賞、平成21年『骸骨ビルの庭』で司馬遼太郎賞、22年紫綬褒章受章。

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