なぜ若者たちは笑顔で飛び立っていったのか——ある特攻隊員の最期の言葉

大東亜戦争末期の昭和20年、日本軍は悪化した戦局を打開すべく、戦闘機で敵艦に体当たりする特攻作戦を展開しました。祖国を護るため、知覧から飛び立っていった若き青年たちに捧げ尽くしたのが特攻の母といわれた鳥濱トメさんです。特攻隊のあの子らのことを決して忘れてはならない——。戦後、こう語り続けたトメさんが後世に遺した言葉とは。トメさんの託した思いを、富屋旅館三代目女将・鳥濱初代さんに語っていただきました。

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ある特攻隊員の最期の言葉

 畏友服部武司さん

「愈々出撃も明日と決定せる今、全てを打ち明けます。約半年前振武隊桜花隊特別攻撃隊の命を拝受して遂々明日こそその大任を果す事と成りました。喜んで下さい。勝又は漸く服ちやん達の期待と応援に報ゆることの出来るうれしさで一杯です。昨晩父母、兄たちと訣別し小生の元気なハリキリ飛行も存分見て貰ひました。書き度い事が一杯で何と書き申して良いのか解りません。只勝又が君達と別れて日本の必勝を信じて突入して往く事を喜んで下さい」

              *

これは特別操縦見習士官二期生として知覧の飛行場で教育を受けていた勝又勝雄少尉が特攻隊として出撃する前日に親友に宛てた手紙です。

勝又少尉は昭和20(1945)年5月4日に知覧飛行場より出撃し、沖縄周辺で戦死されました。享年22歳でした。

この勝又さんは知覧の町で誰もが知る有名人でした。というのも、まだ空襲もなかった昭和18(1943)年、町で行われた運動会に飛行学校の生徒として参加した勝又さんは獅子奮迅の大活躍をしたのです。とくに最後に行われた騎馬戦では相手を次々に倒して、見事、勝ち残りました。豪快で明るい性格の勝又さんの行くところ、笑顔の花が咲きました。

飛行学校を卒業してから1年後、勝又さんが久しぶりに富屋食堂に姿を現しました。すでに少尉となっていた勝又さんは、富屋食堂の女将であり、飛行学校の生徒の頃に可愛がってもらった鳥濵トメに会いに来たのです。

しかし、勝又さんの挨拶を聞いて、トメは胸を痛めました。

「おばちゃん、久しぶり。でも、今度は短いよ。何しろ特攻だからね。だから今日は飲みおさめというわけで、思い切り飲んで、飲み足りないことのないようにしてからドーンと行こうと思うんだ」

富屋食堂は軍の指定食堂であったため、特別にお酒の割り当てがありました。とはいえ、在庫は限られており、トメは隊員さんたちにさびしい思いをさせないようにと、四方に手を尽くしてお酒を調達していました。

勝又さんはトメが苦心して調達した焼酎を一杯つがれるごとに「おばちゃん、ありがとう」とお礼を言って飲み干しました。

トメはたくさんの命を犠牲にしながら全く見通しの立たない戦争への不安を口に出し、「日本の行く末が心配だよ」と沈んだ口調で言いました。そんなトメの不安を振り払おうとするかのように勝又さんは言いました。

「俺は勝又の勝雄だよ。勝つ、勝つ、こんないい名前はないだろう。このめでたい名前の勝又勝雄が出撃するんだから、日本は勝つに決まってるよ」

おどけた調子でそう話すのを見て、トメはつい笑ってしまいました。

「そうだよ、おばちゃん、笑ってくれよ。くよくよ心配なんかしちゃだめだよ。あんまり心配すると、頭の毛が抜けてハゲになっちゃうよ。ハハハ」

そして

「おばちゃん、笑ったところですまんがもう一杯」

と杯をトメの前に差し出しました。

好きな酒を心ゆくまで飲み尽くした勝又さんは、帰り際、トメに最後の別れを告げました。

 「おばちゃん、元気で長生きしてくれよ。人生50年と言うけれど、俺なんかその半分にもならない20年であの世に行っちゃうんだからな。あとの30年は使ってないわけだ。だから俺の余した30年分の寿命はおばちゃんにあげる。おばちゃんは人より30年余計に生きてくれよ。きっとだよ」

 それから「じゃあ、さようなら」と手を振って勝又さんは去って行きました。その後ろ姿をトメはいつまでも忘れることができませんでした。

太平洋戦争末期、日本は戦局を打開するために、飛行機ごと敵艦に突撃する特攻攻撃を採用しました。鹿児島にある知覧飛行場からは、連日、沖縄に向けて数多くの若者たちが飛び立ち、自らの命を捧げました。

戦後、特攻隊は軍国主義の悪しき象徴のように言われ、隊員の死は「犠牲」「犬死に」とされました。

しかし、「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメは、彼らの傍らにいて、その最期の日々をともに生きてきた者として、若者たちの尊い命が「犠牲」や「犬死に」という言葉でひとくくりにされることに我慢できませんでした。そして、トメは決意をするのです。

隊員さんたちの真実を伝える語り部として、彼らがどのように生き、なんのために死んだのかを語り続けていこう、と。

鳥濵トメはもうこの世にいません。しかし、トメの言葉は私の記憶の中にしっかり刻みこまれています。私はその思いを引き継ぎ、次の世代にしっかり受け渡していきたいと考えています。

本書は、そのための一つの試みでもあります。私のような者が表に出るのは烏滸がましいという思いもありますが、私が語ることによって、特攻隊員さんたちの、そしてトメの思いが一人でも多くの方たちに伝わるとすれば、天国のトメにも「初ちゃん、よくやった」と喜んでもらえるのではないかと思っています。

心で結ばれたトメと特攻隊員たち

昭和16年に福岡の大刀洗陸軍飛行学校の分教所として知覧飛行場が完成しました。富屋食堂は軍の指定食堂になり、訓練が休みの日になると多くの少年飛行兵が訪れるようになりました。町には映画館があるわけでもないし、優しいおばさんのいる富屋食堂は少年兵たちの憩いの場所になったようです。

誰に対しても分け隔てなく温かく接するトメの人柄は若い兵隊さんたちの心を和ませました。富屋食堂は大変な賑わいとなり、トメはみんなから最初は「おばさん」そのうちに「お母さん」と呼ばれるようになりました。

一方、戦争は悪化の一途をたどり、昭和20年、沖縄戦が激化するようになると、ついに特攻作戦が導入されることが決定されました。そして、悲しいことに本土から沖縄に最も近い場所にある知覧飛行場がその出撃基地として選ばれてしまいました。

分教所で学んだあと各地の航空基地に散っていた少年兵たちが、成長した姿で続々と知覧に戻ってきました。懐かしい顔との再会にトメは喜びましたが、やがて彼らが特攻作戦に従事することを知ると、心は悲しみで沈みました。

しかし、トメはつらい気持ちを胸の奥に隠して、最後まで彼らの「お母さん」として振る舞おうと決めました。そして隊員さんたちがゆっくりする場所がないと困るだろうと、食堂裏の民家を借り受け、そこを「離れ」と称して開放しました。トメは卵焼き、サツマイモの天ぷら、ジャガイモの煮付けなどを作って供し、それを肴に彼らはよく飲み、高唱しました。

ただ、お金をもらう以上にもてなすので、食材を買うお金が底を突きそうになったこともあったようです。そういうときは自分の着物や家財道具を売って工面をし、材料を調達していたといいます。

明日の身がない子たちに心ゆくまで居させてあげたいとの思いだったのでしょう。当時は軍の統制下で営業時間が午後9時までと厳しく定められていましたが、トメはその時間を守らず、夜が更けるまで営業を続けました。トメには命が限られている特攻隊の人たちに対して時間を切ってもてなすようなことはできなかったのです。

あるとき、それが憲兵隊に見つかってしまいました。「営業時間を守ってない、風紀を乱す」という理由でトメは警察に連行されました。軍の規定違反をとがめられたトメは、

「9時以後はお金ももらっていないし、商売で飲み食いさせているわけではない。それに、いい気分で寝てしまった子たちを起こすわけにはいかない。兵隊さんたちは自分の子供みたいなものなのだ」

と素直な気持ちで話しました。そして

「それくらいしてもいいじゃありませんか! あの子たちは2、3日したら体当たりするのだから」

と思いの丈を吐き出しました。それが憲兵たちの怒りに油を注ぎました。「貴様、女の分際で理屈を言うか!」と4、5人に囲まれて殴る蹴るの暴行を受けてしまいました。

その頃、富屋食堂にやって来た隊員さんたちは、いつも笑顔で迎えてくれるトメがいないのを気にとめ、店員に「お母さんの姿がないけど、どうしたんだ?」と聞きました。そして憲兵隊がしょっぴいて行ったことを知ると、代表者が警察署に向かい

「僕たちの身はどうなっても構わないが、釈放しないのなら力づくでも奪い返す。どうせ明日には死ぬ身だから」

と直談判してトメを救い出したのです。

トメは殴られ蹴られて傷つき腫れ上がった顔のまま隊員さんに担がれて富屋に帰って来ました。こんな仕打ちを受けながらも、トメは決して怯むことなく、それからあとも隊員さんたちに尽くし続けました。これらの話を聞くにつけ、トメは覚悟の人、無私の人だったと感じます。

トメは左手首の付け根より少し内側に「トメ」という字を刃物で刻んでいました。字といっても私が見たときはもう傷のようになっていたのですが、あるとき「おばあちゃん、これ、なんなの?」と聞くと、トメはこう答えました。

「このトメがどこでどうなってもこれを見ればトメだってわかるから、人に迷惑をかけんから」

 憲兵隊に暴行を受けてもしものことがあったときに、ここにトメとあるのを見れば自分だとわかるだろうというのです。たえと野垂れ死にしようと、トメだとわかるようにしておけば人に迷惑をかけることもない、と。

この話を聞いたときは鳥肌が立ちました。神がかっていると感じました。すごい生き方だと思いました。特攻隊の隊員さんたちが国の将来や愛する家族を守るために自らの身を捧げたように、トメもまた自らのすべてを隊員さんたちに捧げようとしていたのです。

本記事は致知出版社刊『なぜ若者たちは笑顔で飛び立っていったのか』より内容の一部を抜粋・編集したものです

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◇鳥濵初代(とりはま・はつよ)
昭和35年鹿児島県生まれ。55年鹿児島女子短期大学卒業後、老人ホーム「寿楽園」に勤務。58年鳥濵トメの孫・義清氏と結婚する。平成7年富屋旅館三代目女将に就任。旅館業の傍ら、祖母・鳥濵トメの託した思いを来館者に日々語り続けている。

◇鳥濵トメ(とりはま・とめ)
明治35(1902)年~平成4(1992)年。鹿児島県出身。貧しい漁民の子として生まれ、8歳で奉公に出される。18歳で鳥濵義勇と結婚。昭和4年27歳の時、知覧に富屋食堂を開業。20年特攻作戦が始まると知覧から出撃する特攻隊員の面倒を見るようになる。憲兵の検閲を避け、隊員が家族などに宛てた手紙を代理で投函した他、隊員の出撃の様子を自ら手紙に綴り、全国の家族のもとへと送り続けた。21年飛行場の一角に棒杭を立て、隊員の墓標として供養を始める。27年富屋旅館開業。30年特攻平和観音堂が建立され、その観音堂参りが以後ライフワークとなる。平成4年4月22日逝去。享年89。

特攻隊の母・鳥濵トメが遺した言葉

『なぜ若者たちは笑顔で飛び立っていったのか』(鳥濱初代・著)定価=本体1,540円(税込)

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