2018年10月24日
小林義功和尚は、禅宗である臨済宗の僧堂で8年半、真言宗の護摩の道場で5年間それぞれ修行を積み、その後、平成5年から2年間、日本全国托鉢行脚を行うという大変ユニークな経歴の持ち主です。義功和尚はどういうきっかけで仏道を志し、どのような修行体験をしてこられたのでしょうか。WEB限定の当連載では、ご自身の修行体験を軽妙なタッチで綴っていただきます。
素泊まりのはずが・・・
扉を開けて中に入ると喫茶店かスナックだろうか。左手にカウンター、右手にテーブルが並び、そこそこ客もいる。
驚いたのではないか。網代笠と長い錫杖。それだけでも目を魅くが、テレビの時代劇などで見る托鉢僧が画面を飛び出して目の前にいるのだから。
カウンターの中に居た女性、店主だろうか。振り返ったのですぐに尋ねた。
「お聞きしたいのですが、近くに旅館はありますか」
「そうですね・・・」
小首をかしげて思案をしている。
するとテーブルの席に据わっていた客がいきなり声を発した。
「ありますよ。○○旅館。どこから来られたのですか」
お母さんとその娘だろうか。二人が私をじっと見つめた。
「鹿児島の最福寺です」
「あっ、知ってる。知ってる。テレビで見たわ」
声が弾んでいる。偶然の御縁が嬉しかったようだ。
「送って行きますよ。すぐ近くですから」
と親身になって心配してくれる。有り難い。
言われるままにクルマに乗り込んだ。五分ちょっと走ったか。思ったより近い。
「ここです」
と私を旅館の前で下ろし、
「では」
とアクセルを吹かして慌ただしく走り去った。旅館の方と交渉してくれるかと期待もしたがどうやら違った。私は暗闇の中で1人ポツンと取り残され、急に不安になった。振り返ると旅館の玄関から白い明かりが洩れている。
「ごめんください」
「はーい」
出てこられたのはご主人である。
「素泊まりでいいんですが、泊めて頂けますか」
それだけ言うと
「どうぞ、どうぞ、お上がり下さい」
2階の部屋に案内して頂きお風呂に入ると、疲れていたので早々に布団にもぐりこみ眠った。
翌朝のことである。顔を洗って歯を磨いていると
「どうぞ、お食事が出来ています。召し上がって下さい」
と1階から御主人の声が掛かった。
「はーい」
と返事をしたものの、「素泊まりなのに何故?」疑念が浮かぶ。「食事の用意が出来ているのに断ってはゴタゴタするか。修行僧としてそれはまずい。仕方ない。ともかく素直に頂こう」と朝の食事の席に着いた。
御主人の笑いの意味
頂きながらも心中は、穏やかではない。「素泊まりでも朝食付きか? 宿泊代はいくらだろう」と気になるが、ともかく食事を済ませて部屋に戻った。そして仕度を整えて玄関に下り
「宿泊代はお幾らですか?」
と尋ねた。
「結構です」
と軽く頭を下げる。私にはその意味が分からない。宿泊したのだから代金を支払うのは当然。払わなければと思っているから
「何故ですか」
と質問をした。御主人はただ笑っておられた。
禅宗に居た時から托鉢は何度も経験している。集団で午前中出掛けて昼には戻ってくる。途中、寺で御接待を受け菓子やお茶を頂き一服する。あるいはカレーライスやうどんを頂くこともある。それは事前に話し合いが成立した上でのことだ。
ようやく『ふむふむ・・・う~ん、そうか。これが御接待というものか』とその御主人のお気持ちが分かった。修行者は修行に専念するからそれを支援する。托鉢で金銭の喜捨を受けると同じように宿泊と食事の喜捨を頂いた。そういうことらしい。自分なりに納得してお礼を申し上げ、頭を下げた。その時にひょっとしてと思い、
「最福寺を御存知ですか」
と尋ねると
「はい」
と実直な返事があった。最福寺も激しい護摩行をしている。その行を率直に尊いものと受け入れる。そうした素朴な信仰があることを実感した。
それにしても困ると何故か助けが入る。偶然といえば偶然だが。有り難いこと不思議なことだ。仏とは果たしてこうしたものだろうか・・・。