二人三脚で挑むパラリンピックへの道——臼井二美男×鈴木徹

平成12年シドニー大会を皮切りに6大会連続でパラリンピックに出場。平成28年のジャパンパラ競技大会で2メートルの大台を突破し、令和元年の世界選手権では2大会連続となる銅メダルを獲得するなど、日本を代表するパラ陸上選手の鈴木徹氏。鈴木氏を義肢装具士として支えるのが、臼井二美男氏です。お2人の運命的な出会いを振り返っていただきながら、二人三脚で挑むパラリンピックへの想いを語り合っていただきました。

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運命の出逢いから義足アスリートへ

<鈴木>
それで山梨の病院に3か月間入院した後は、スポーツ選手として復帰するべく、担当医の先生や両親と相談して競技用の義足をつくってくれる病院を探しました。

そうしたら、「慶應大学病院がよい」という噂を耳にし、実際にそこに入っていたのが、臼井さんの勤める鉄道弘済会・義肢装具サポートセンターだったんですね。

私の将来を考えて、両親が競技用義足の製作に力を入れている臼井さんのことを調べてくれたんです。確か、両親は事前に臼井さんに挨拶に伺ったんでしたよね。

<臼井>
そう。ご両親とは鈴木君が入ってくる前に一度お会いしました。

それもあって私が鈴木君を担当することになったんですよ。

<鈴木>
ただ、いざ義肢装具サポートセンターに行ってみると、担当は臼井さんではなくて、別の若い方だった。というのは、臼井さんが担当になれば、僕に無理をして運動させるだろうと、心配した看護師さんが担当を変更していたんです。

事前に担当は臼井さんだと聞いていたのに違う人が来ていておかしいなと思っていたのですが、思い返せば、最初に若い担当者の方に会った時、その後ろにいたおじさんが臼井さんだった(笑)。

<臼井>
一度私が担当することに決まっていたこともあって、一応ついてきていたんですよ。

でも、そもそも鈴木君はスポーツがやりたくて入ってきたのだから、若い子が担当では義足で生活するまではサポートできても、その先までは保証できないわけです。

だから、しばらくして、「悪いけど、自分にバトンタッチしてくれ」って、結構思い切って伝えたんですね。

<鈴木>
それがなければ……。

<臼井>
私は鈴木君の担当にならなかったし、パラリンピックもなかったかもしれない。

事実、最初は切った部分の傷が完全に治っていなくて、痛みが出ない義足をつくるだけでかなり大変だったよね。

<鈴木>
病気などが原因で切断した場合は、傷口がわりと綺麗で復帰も早いのですが、僕のように事故の場合は、切断部分が少し刺激を受けただけでも血が出てくるんですよ。

だから、鉄道弘済会を退院した以降も何度か手術を受けましたし、最初は義足を着けて歩くだけでも痛くて辛い状態でした。

<臼井>
それに事故後の緊急的なオペだったことも影響して、切断面があまり整えられておらず、骨が皮膚表面のギリギリまで出てきたり、切った神経がくるくる丸まって血腫のようになったりもしましたね。

そこにオペを何度かやるわけですから、その都度足の状態が変わってくる。

さらに、義足を着けて走る練習ができるようになったらなったで、今後は膨らんでいた筋肉が成熟して、だんだん足が痩せてくる。すると、また義足をつくり直すことになるんです。

<鈴木>
最初だけで5つくらいつくっていただいたと思います。それくらい体の変化が激しかった。

<臼井>
そういう意味で、鈴木君の義足づくりは私にとって本当に試行錯誤、挑戦の連続でしたね。

二人三脚でパラリンピックを目指す

<鈴木>
そうして臼井さんに義足を調整してもらいながら、スタートラインTOKYOや東京都障害者総合スポーツセンターなどでリハビリと練習に取り組んでいったのですが、100メートル走るのに20秒かかってしまい、これではハンドボール選手は難しいのかもしれないと感じました。

でも、いろんな競技に挑戦してみる中で、走り高跳びをやってみたところ、ハンドボールで培ったジャンプ力が生きたのか、当時の障がい者選手が持つ日本記録を15センチほど上回る、1メートル65センチ跳ぶことができたんですよ。

それで陸上選手になろうと志すようになって、休学していた筑波大学に復帰後、ハンドボール部の先生に思いを伝え、陸上部に入部することにしたんです。

<臼井>
筑波大学のグラウンドに何度も足を運び、義足を調整したのをいまもよく覚えていますよ。

でも、そこから走り高跳びのパラリンピック代表に選ばれるまで、本当にあっという間だったよね。

<鈴木>
2000年の3月に大学に復帰して、4月の九州パラリンピック大会でシドニーパラリンピック参加標準記録である1メートル74センチを跳び、さらに5月の日本選手権で1メートル81センチを記録して日本代表に選ばれました。これには僕自身が一番驚きました。

<臼井>
だから、義足にしても、8月末から始まるシドニーパラリンピックに何とか間に合わせなくてはいけないと、休日に山梨の実家まで行って型を取るくらいの切迫感でしたね。

おかげさまで時間外労働が日常化しました(笑)。

<鈴木>
普通であれば、なかなかそこまでは付き合い切れないと思います(笑)。

病院に入院してリハビリをしながら、同時に臼井さんに義足製作や調整をしてもらえるという最高の環境にあったことは確かですが、最初から臼井さんがどんどん競技の情報をくれて、当時最先端の技術を優先的に提供してくださったからこそ、自分はシドニー大会に出場できたんです。

あと、覚えていらっしゃるか分かりませんけれども、まだパラリンピックを目指しているとも、陸上競技をするとも言っていない時期に、臼井さんが僕のリハビリの様子をビデオカメラで撮影しながら、「この映像いつか使うから」って言ったんですよ。

当時は不思議なことを言う人だなと思っていたのですが、その映像が1年後のシドニーパラリンピックの際、NHKの番組で使われたんですね。

初めてお逢いした時から、臼井さんは僕の可能性を感じ、心から信じてくださっていた。そういう意味で、臼井さんと出逢えたことにものすごく感謝しています。

<臼井>
私も鈴木君に出逢ったことでいろんな経験ができて、本当に感謝していますよ。


本記事では、「見えない力に導かれ義肢装具士の世界へ」や、「片足を失っても希望は失わない」など、お2人のこれまでの歩みや出会いを振り返っていただきながら、二人三脚で挑み続けておられるパラリンピックへの想いと、失望を希望に変える心の持ち方について語り合って頂きました。何かに挑戦している方必見の内容となっております。

◉『致知』2024年6月号 特集「希望は失望に終わらず」◉
対談〝「挑戦する心が無限の可能性をひらく」

臼井 二美男(義肢装具士)
鈴木 徹(SMBC日興証券㈱所属パラ陸上選手)

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◆40年、仕事への姿勢が全く変わらない
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◆見えない力に導かれ義肢装具士の世界へ
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◆片足を失っても希望は失わない
◆運命の出逢いから義足アスリートへ
◆二人三脚でパラリンピックを目指す
◆「鈴木さん」から「鈴木選手」へ
◆世界の舞台で活躍し続ける秘訣
◆頼まれた仕事は絶対に断らない
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◇臼井 二美男(うすい・ふみお)
昭和30年群馬県生まれ。大学中退後、フリーター生活を送る中、28歳で義肢装具士の仕事に出合う。以後、鉄道弘済会・義肢装具サポートセンターに勤務し、生活用義足や競技用義足の製作、さらに個人で陸上クラブ・スタートラインTOKYOを立ち上げ、障がい者スポーツの普及に取り組む。令和2年「現代の名工」、4年文部科学大臣賞、5年内閣総理大臣賞、同5月黄綬褒章など受賞(章)多数。

◇鈴木 徹(すずき・とおる)
SMBC日興証券㈱所属パラ陸上選手 昭和55年山梨県生まれ。ハンドボール選手として、高校時代に国体三位の成績を残す。18歳の時に交通事故で右足の膝から先を切断。入院・リハビリを経て、日本初の義足の走り高跳び選手に。平成12年シドニー大会を皮切りに6大会連続でパラリンピックに出場。平成28年のジャパンパラ競技大会で2メートルの大台を突破する。令和元年の世界選手権では2大会連続となる銅メダルを獲得。現在もSMBC日興証券に所属し、選手兼日本パラ陸上競技連盟の強化コーチとして第一線で活躍を続ける。

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