「文字の獲得は光の獲得でした」藤野高明さんの生き方を変えた、恩人の〝愛〟

1946年夏のある朝。戦火が収まり、平和と希望に溢れた時代が始まるかに思われた矢先、7歳だった藤野高明さん(元大阪市立盲学校教諭)は不発弾の爆発に巻き込まれ、両手首と視力、そして幼い弟を失われました。点字を読む両手がないばかりに盲学校への入学もできず、不就学の時代を過ごすこと13年。いわゆる健常者のように「ぐれる」ことすら許されない人生に、どうやって希望を見出されたのでしょうか。(撮影:𠮷田三郎)

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生きることに真面目になろう

――どのようにして光明を見出されたのですか。

〈藤野〉
目の治療で入院していた18歳の頃、熊本敏子さんという3つ年上の看護学生が私の病室によく遊びに来てくれていました。実習生ですから患者さんとよくコンタクトを取りなさいと言われていたのでしょう。話す内容としては他愛のない世間話ばかりで、彼女は高校を出て一年間福岡市内のデパートに勤務し、もっと違う仕事がしたいと看護の道を志していました。「私も回り道したんよ」と言われた時は、親近感が増すのを感じました。

ある時、熊本さんが「私、藤野さんに何かしてあげられることはあるかな」と聞くから、「できたら本を読んでほしい」と答えたところ、彼女が持ってきて読んでくれたのが北條民雄の『いのちの初夜』という小説でした。北條民雄はハンセン病患者の作家で、死にきれずに療養所に辿り着くまでの苦悩から患者さんの実態まで細かく書き記しています。とても重たい内容でしたが、惹き込まれるように朗読に聴き入りました。

――ご自身の体験と重ね合わせられたのでしょうね。

〈藤野〉
熊本さんはハンセン病に関する本を他にも取り寄せてくれ、その中のある記述に私は大変な衝撃を受けました。舌や唇を使って点字を読む人がいるというんです。このことは、ぐれかかっていた自分を反省するというか、いやそんな月並みな言葉では表現できないほどの衝撃でしたね。

病院に入院していた盲学校の生徒が私が点字に関心を持っていると知って、教えてくれました。1つ点があったら「あ」、2つ点が縦に並んでいたら「い」、横に並んでいたら「う」……。このように点字はシンプルで明快ですから、五十音を覚えるのに2~3時間しかかかりませんでした。

しかし、それを唇で読み取るのは大変な苦労が必要でした。練習を重ねる中で幾つかの文字の塊が言葉となり、文章となっていきました。やがて島崎藤村の『千曲川旅情の歌』などの難しい文章も読めるようになり、スピードも少しずつ速くなっていったんです。

自分の力で一つの文章を読めたのは、それこそ光でした。私は「文字の獲得は光の獲得でした。光は希望です。希望は生きる力に繋がります」とよくお話ししますけれども、それは私の実感そのものなんです。

若かったですから、かっこよく生きたいと思っていましたが、かっこよくではなく、しっかりと生きなくちゃいけない。生きることにもっと真面目にならなくてはいけないと思ったのもその頃です。


(本記事は月刊『致知』2021年10月号 特集「天に星 地に花 人に愛」より一部を抜粋・編集したものです)

◉暗がりにあった心に差した、一筋の光明。藤野さんはこの後も様々な試練に遭いながら、人と時代を味方につけ、それまで誰も到達していなかった人生の「一塁ベース」を踏んでいかれます。担当編集者も感涙を堪えきれなかったロングインタビューをご一読ください。

◇藤野高明(ふじの・たかあき)
昭和13年福岡県生まれ。21年小学2年生の時、不発弾爆発により両目の視力と両手首を失う。34年大阪市立盲学校中学部2年に編入。46年日本大学通信教育部卒業。47年大阪市立盲学校高等部非常勤講師。翌年、同校教諭。平成14年同校を退職。同年、第37回NHK障害福祉賞受賞。著書に『あの夏の朝から 手と光を失って30年』(一光社)『未来につなぐいのち』『楽しく生きる』(共にクリエイツかもがわ)がある。

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