2021年06月12日
新薬の開発や液晶など様々な分野に応用される「クロスカップリング反応」を発見し、ノーベル化学賞を受賞された根岸英一さんが85歳(2021年6月6日)でお亡くなりになりました。常に最高レベルの研究に挑戦し続けた根岸さんを偲び、弊誌にご登場いただいたインタビューをご紹介します。
夢が人生を導く
――根岸先生が研究者の道を目指されるようになったのは、大学に入ってからですか?
〈根岸〉
もともとは電気工学に興味がありました。特に中学高校の頃は電気いじりが好きで、神田の駅から須田町まで並ぶ露店によく入り浸っていました。お小遣いを貯めては、無線だ、ラジオだ、プレーヤーだのをつくる部品を買いに行くんですよ。
本当にたくさんの店が並んでいましたが、その中に製品がよいというので評判の店がありましてね。「東通工」といって、おじさんが二人でやっていた。実はその店はいまのソニーの前身で、そのおじさん二人というのはたぶん井深大さんと盛田昭夫さんだったのでは、と思っています。値段は他の店よりちょっと高いんですが、それでも物がいいから皆買いたがっていましたね。
その電気いじりも大学受験を控える頃にはやめましたが、大学に入ってからも電気工学の研究者になろうという気持ちは変わりませんでした。
ところが、ある大手電機メーカーに入った先輩が、「あそこはケチだぞ」って話を何度もするわけですよ。確かに当時の花形産業は石油化学で、東洋レーヨン、旭化成、帝人などの化学繊維産業がものすごい勢いで伸びていました。私としては電気工学に未練はあったものの、先輩に吹き込まれているうちに、やっぱりやめようと。それで専攻を応用化学と決めて、高分子の研究室に入りました。
――ではその決断によって、科学者として研究への道が開けたと。
〈根岸〉
そうですね。大学卒業後は帝人に入社したわけですが、なぜ帝人を選んだかというと、大学3年の時に試験に通って「帝人久村奨学金」を受けていましてね。その奨学金は、帝人に入社すれば返済義務はないというものだったので、奨学金を受ける時点で帝人への入社を決めていました。
いまもよく覚えているのが、入社式の社長訓示です。当時の帝人の社長は大屋晋三さんという非常に有名な方でしたが、その大屋さんがこうおっしゃったんですよ。
「若者よ、海外に出ろ! 10年に一か国語ずつ学べば、30年で3か国語が話せるようになる。そうすれば君たちも世界に通用するようになる」
「どんなに頭が冴えていようとも、日本のレベルはたかが知れている。世界一流レベルに伍してゆくという気宇壮大な気の持ち方がすべての根本をなす」
――心を奮い立たせるような訓示ですね。
〈根岸〉
私は学生時代から「アメリカに留学しよう」という夢を持っていて、英会話の勉強をしていましたから、私にとってまさに渡りに船のような話でした。
実は大学3年生の時に大病をしたために一年留年しているのですが、その時期に小さなグループをつくって英会話の勉強をするようになりました。それは随分役に立ったと思います。
それに入社後、しばらくして山口県岩国市内の研究所に配属されたのですが、川の向こうが米軍基地だったんですよ。そこには軍人だけでなく、その家族もいるでしょう。当然子供たちを教える先生もいたので、その方に交渉して私たち社員に英会話を教えてもらったこともありました。
――夢を叶えるために、努力を積まれていったと。
〈根岸〉
ただ、当時は企業がお金を出して社員を留学させてくれるような制度はまだありません。ですから、お金のない人間にとって、唯一留学できるチャンスだったのが全額奨学金を出すフルブライトでした。
もっとも、その選抜試験というのが難関として有名でした。毎年、全国から2000人くらいが応募してきて、最終的には20人くらいしか受からない。おそらく確率的に言って、私の人生の中で一番難しい試験だったと思うのですが、おかげさまで無事合格し、フィラデルフィアにあるペンシルべニア大学大学院への留学が決まりました。
――それはすごいですね。
〈根岸〉
帝人に入社して2年経ってからのことでしたが、これは私にとって一つの大きな転機になりました。やはり夢はドン・キホーテみたいに持つことが大事ですね。
(本記事は月刊『致知』2017年1月号 特集「青雲の志」より一部抜粋・編集したものです) ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。 ≪「あなたの人間力を高める人間力メルマガ」の登録はこちら≫
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◇根岸英一(ねぎし・えいいち)
昭和10年旧満洲長春生まれ。東京大学工学部応用化学科卒業後、33年帝人株式会社に入社。35年帝人を休職して、フルブライト奨学生としてペンシルベニア大学大学院に留学。41年帝人を退職、パデュー大学博士研究員に。47年シラキュース大学助教授、同准教授を経て、54年パデュー大学に移籍し、教授に就任。平成元年同大学化学科特別教授に就任。有機合成におけるパラジウム触媒クロスカップリングに関する業績で、22年ノーベル化学賞を受賞。著書に『夢を持ち続けよう!』(共同通信社)がある。