倒産の危機を救ったアサヒ「スーパードライ」|王座奪還に懸けた営業王に学ぶ

「倒産するかもしれない」。アサヒビール前社長の平野伸一さんは、同社のシェアがどん底まで低迷していた時代に入社。ひたすら工場の草むしりをする毎日で、早々に危機感を覚えたといいます。後にビール業界を席巻する「スーパードライ」の開発は、ここから幾人もの男たちを巻き込んだ闘いへと発展していったのでした。長くビール業界の趨勢を見つめてきた日本経済新聞記者・前野雅弥さんに聞きました。

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平野伸一氏の圧倒的な「リサーチ力」

アサヒビールの現(掲載当時)社長・平野伸一氏が同社に入社したのは1979年。まさにキリンビールが圧倒的な王者として君臨する一方、アサヒビールのシェアは10.6%という〝どん底〟の時代でした。

入社したものの仕事がない平野氏は、朝から工場の敷地内で草むしり、それが終われば発酵タンクの掃除をする日々を余儀なくされます。「倒産するかもしれない」、本気でそう思ったと言います。

ようやく東京支店西営業所に配属され現場に出るようになった平野氏は、危機感から一心不乱に仕事に打ち込みました。たとえ取り引きがない店でも担当エリアの酒販店の葬式には全部参加、キリンビールを配達するお店を汗だくになって手伝い、ケースの隅に数本のアサヒビールを紛れ込ませて飲んでもらう。一本のビールを売るための徹底したどぶ板営業でした。

とはいえ平野氏の営業成績はずば抜けていました。その強さの秘訣は徹底したリサーチ力にありました。

担当する得意先を訪問する前に、売上高や従業員数、店主の趣味まですべて調べ上げます。よいところは具体的に褒め、弱いところは解決策まで提示、相手の邪魔になる、挨拶だけの表敬訪問は一切しません。そうした姿勢が取引先の信頼を生み、先輩たちを次々と抜き去っていったのです。

「出る杭も、手が届かないところまで出てしまえば打たれない。俺は出る杭になる」。

これが平野氏の身上です。

いま(当時)社長になった平野氏は、手を抜いた部下には顔を真っ赤にして怒鳴ります。渾名は「赤鬼」。しかしそれは社員への愛です。自分が味わった草むしりの日々に社員を絶対陥れてはならないという決意があるからに他なりません。一瞬の隙も許さない。トップを目指し挑戦し続ける。これは仕事、営業の要諦といってよいでしょう。

村井勉氏の「傾聴力」

平野氏の営業マンとしての人格形成に大きな役割を果たした人物の一人に、村井勉氏がいます。村井氏はアサヒビール再建のため、1982年に住友銀行(現三井住友銀行)から送り込まれた名経営者です。

当時のアサヒビールは、「売れない営業が悪い」「いや、売れない商品が悪い」と、営業現場と開発部門で責任の押しつけ合いをしていました。労働組合の力も強く、「業績が悪いのは会社のせいだ」などと、社内には会社の危機に対し社員一丸となって粉骨砕身するという雰囲気もありませんでした。

そのような中、村井氏がまず取り組んだのは、若手の話を徹底的に聞くということでした。喫茶店に若手を呼び、「最近どうなんだ」と質問し、現状と問題点を炙り出していく。その当時、京橋の東京支店にいた平野氏も村井氏に呼ばれ、「商品がだめですね」などと、率直な意見をぶつけています。

村井氏は笑って聞いているだけ。しかし、最後には「売れない商品が悪い」と、主力商品の味を変える決断をします。5,000人規模の消費調査の結果を受け、消費者ニーズに寄り添ったビールをつくろうと、長年大事にしてきた酵母を変えるのです。これは革命でした。

この味を変えるという村井氏の判断が、後任の樋口廣太郎氏の代に大ヒット商品「スーパードライ」として花開きます。

「『スーパードライ』といえば、樋口廣太郎」とも言われますが、織田信長や豊臣秀吉がいなければ、徳川家康の江戸幕府が成立しなかったように、「スーパードライ」もまた、村井氏がいなければ誕生していなかったはずです。

樋口廣太郎氏が呼び込んだ「天運」

1986年1月、村井氏から経営のバトンを受け、アサヒビール社長となったのは、同じく住友銀行出身の樋口廣太郎氏でした。

そして先にも述べたように、村井氏は全幅の信頼を置く樋口氏に世界初の辛口ビール「スーパードライ」の発売を託します。

1986年夏に本社マーケティング部酒類営業企画三課に移動となっていた平野氏も、「スーパードライ」を売り出すために奮闘していました。ただ、事は簡単には進みません。1年前に発売した「アサヒ生ビール」が久々のヒット商品となっていたこともあって、経営資源を分散することになる「スーパードライ」の発売は、経営会議で認められなかったのです。

ところが「スーパードライ」の拙速な発売に最も反対していたはずの樋口氏が、1987年1月、新年の事業方針を伝える説明会で豹変(ひょうへん)します。約300人の特約店の店主を前に事務方が用意していた原稿をぶん投げ、

「今年は『スーパードライ』でいきます。世界で初めての辛口ビールです」

と、言い放ったのです。会社のこれまでの方針が180度くるりと変わってしまった瞬間でした。豹変は樋口氏の全くの天才的直感でした。

そして、直感には「天運」がありました。銀行マンだった樋口氏は、ビール雑誌など一度も読んだことがなかった。

しかし社長就任後のある休日、たまたま手に取ったビール雑誌を捲(めく)ると、そこに「ビールに含まれるアルファ酸(苦みをつくるもの)が世界的に7%減っている」という記事が偶然掲載されていたのです。ここで樋口氏はビールに求められる味が世界的に変わっている事実に気づきます。

樋口氏は敬虔なクリスチャンでしたが、この偶然こそ、まさに「天運」でした。そしてその「天運」を逃さず捕らえ、「スーパードライ」へと舵を取る決断をしたところに樋口氏のすごさがあります。

「スーパードライ」に社運を懸けた樋口氏は、莫大な借金をして工場を次々と立ち上げ、広告宣伝にも通常の新商品の3倍の量を投入。さらに当時無名の国際ジャーナリスト・落合信彦氏をCMに起用するなど、常識を打ち破る新鮮な宣伝戦略も奏功し、「スーパードライ」のシェアは1990年には23.9%にまで上昇していきます。

1ミリでも歯車が狂えば会社は倒産していた。そうならなかったのは天運です。潔くすべてを白紙にし、ゼロにした。そこに天運が添えられたのです。必死で「人事」を尽くしたところに、「アサヒ再生」という天命が下ったのでした。


(本記事は月刊『致知』2017年12月号 特集「遊〈ゆう〉」に掲載の「ビール営業王に学ぶプロの神髄」から一部を抜粋・編集したものです)


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【著者紹介】
前野雅弥(まえの・まさや)
昭和40年京都府生まれ。平成3年早稲田大学大学院政治学研究科修了、日本経済新聞社入社。東京経済部で財務省、総務省などを担当。エネルギー記者クラブ、国土交通省記者会を担当後、21年よりビール業界を担当。今年8月に出版した『ビール「営業王」社長たちの戦い 4人の奇しき軌跡』(日本経済新聞社)はベストセラーとなっている。

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