2021年06月07日
「里の秋」「みかんの花咲く丘」などの代表作で知られ、童謡作曲家として、その創作と普及に多大な足跡を残した海沼實氏。その孫である3代目・海沼実さんは現在、日本童謡学会理事長として多方面でご活躍されています。祖父から引き継いだ精神、童謡の素晴らしさを、さらに後世へ伝えんとする海沼さんの歩みに心動かされます。
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祖父が伝えたかった童謡の真価
〈海沼〉
童謡が現在とは比較にならないほど支持されていた時代の中、母方の祖父・海沼實は「里の秋」「みかんの花咲く丘」など、いまなお多くの人々に愛唱される童謡を作曲。晩年は関連団体の役職を断り切れず、その普及に力を尽くしつつ、1971年6月13日、62歳の若さで亡くなりました。
祖父は本来リーダーシップを発揮して周りを引っ張るタイプではなく、慣れない役職、心労が命を縮めたのではないかと家族は悔やみ、祖母は月命日のお墓参りを欠かしませんでした。
私が生まれたのはその翌年、不思議にも祖父の月命日でした。そのため、家族は祖父の生まれ変わりではないかと喜び、同じ「みのる」という名前をつけ、私は物心つく頃から自宅兼レッスン場で童謡の指導を受けて育ちました。祖父の弟子や関係者からも大きな期待を寄せられ、まさに私の人生の方向は生まれた時に決まっていたと言えるでしょう。
しかし、成長していくにつれ、将来は童謡の世界に進まなくてはいけないのだから、若いうちにいろいろな経験を積んでおこうと、学生時代はテニスやゴルフに熱中し、大学では文学部で歴史学を専攻しました。
「いったい実はどうしてしまったんだ」と両親は随分心配したようですが、結果的にこの頃の経験が幅広い交友関係や物の考え方に繋がり、社会に出ていく上での財産となりました。もし童謡一本道で進んでいたなら、融通の利かない専門家になっていたかもしれません。
大学卒業後は、祖父の弟子や後輩の方々のサポートを受け、合唱団の指導や楽曲のアレンジなどに取り組み、一歩一歩経験を重ねていきました。
その中で嬉しかったのは、折に触れて童謡の素晴らしさや作品の成り立ちを丁寧に解説してから合唱団に実演させると、聴衆が思いのほか感動してくださったことです。童謡は古い、時代遅れだと言われてきたけれど、そのよさを正しく発信すればいまの世の中にも十分に受け入れられ、人々の生きる糧になることを確信していきました。
祖父との対話から見えたもの
そのうち講演依頼も入るようになり、20代半ば頃からNHK「ラジオ深夜便」や新聞のコラムなどでも童謡について発信する機会をいただけるようになりました。
そして、特にラジオを聴いたご年配の方々から「久しぶりにきちんとした美しい日本語に触れた」という感想が数多く届いたことで、童謡には人々の語彙力や情操、教養などを広く培う教育的意義があるのではないかと、はっと気づかされたのです。その気づきから、私は改めて作品を通して亡き祖父との対話を始めることにしました。
祖父はなぜこの童謡を作曲したのか、この言葉の抑揚にはどんな意味があるのか。祖父との対話を続ける中で、祖父が晩年、命を削ってでも伝えたかったことがよく分かってきました。それは詩の文学性、詩に込められた日本人の生き方や道徳、日本語が持っている響きや表現の美しさ、情感などを、旋律と融合させたものが童謡であるということです。
実際、祖父は「童謡は単なる音楽にあらず」と言っていたそうです。そこの本質、教育的意義が忘れられてしまったために、童謡は他の音楽と同等に扱われ、古くさいと顧みられなくなってしまいました。また、文学性よりも、リズムやハーモニーといった音楽性を追求した童謡が多くなり、子供たちの心にあまり響かなくなってしまったのでしょう。
以後、私は祖父が伝えたかった、追い求めた童謡のあり方、本当の価値を多くの人々に伝えていかなくてはならないと、より一層の使命感を持ってその普及活動や情報発信、後進の育成に取り組むようになったのです。
(本記事は月刊『致知』2021年3月号 連載「私の座右銘」から一部抜粋・編集したものです) ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。 ≪「あなたの人間力を高める人間力メルマガ」の登録はこちら≫
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