日本軍1万 vs アメリカ軍5万——ペリリューの戦いを指揮した中川州男に学ぶ将のあり方

日本の危機を救った21人の偉人たちの生き方を、知の巨人が紐解いた人物伝『忘れてはならない日本の偉人たち』(渡部昇一著/弊社刊)。本日は本書からペリリュ―島の激戦を戦い抜いた名将・中川州男のエピソードをご紹介いたします。

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日本軍1万vsアメリカ軍5万

2015(平成27)年4月、天皇皇后両陛下が大東亜戦争の激戦地の一つ、パラオ共和国のペリリュー島を訪れ、英霊たちを慰められたことは記憶に新しいと思います。

ペリリューの戦いは日本兵1万人が米兵5万人を迎え打ち、その戦況は熾烈(しれつ)を極めました。島の規模は小さく、米国の海兵連隊は圧倒的な兵力で、当初2~3日間で決着をつけるつもりでいました。

しかし、日本軍は実にここで72日もの間、必死に戦い抜いたのです。

日本軍守備隊長を務めたのは、中川州男(くにお)という陸軍大佐でした。結果的に見れば日本軍は玉砕、中川も自刃したとはいえ、2か月以上に及ぶ戦闘に耐え抜き、敵軍を著しく消耗させたのは、この中川の卓越したリーダーシップによるものでした。

今回は日本人にはほとんど知られていない、この中川州男という名将にスポットを当ててみたいと思います。

中川州男は1898(明治31)年に熊本で生まれました。陸軍士官学校を卒業し陸軍歩兵少尉に任官の後は、歩兵第48連隊中隊長などを歴任。1937(昭和12)年盧溝橋事件が勃発、シナ軍との全面戦争に突入すると、中川は野戦指揮官として手腕を発揮し、その功績によって陸軍大学校に学び、陸軍大佐へと昇進します。歩兵第2連隊長となった中川は、連隊に所属する第14連隊が満洲から日本の統治下にあったパラオ諸島に配属されたのに伴い、ペリリュー島守備隊長に就任することになります。

想定外の現実に対し中川はどう立ち向かったか

米軍がペリリュー島へと上陸作戦を開始したのは、その翌年の1944(同19)年9月のことでした。

中川は陸軍大佐です。島での戦いに的を絞って訓練を重ねた米国の海兵連隊とまともに交戦すれば勝ち目がないことを知っていました。驚くべきことですが、それまでの日本軍には島での交戦を想定した戦略や戦術の蓄積は全くありませんでした。

同年、日本の生命線であるサイパン島が陥落し、日本本土が米軍の攻撃の照準に入るまで、日本軍には島嶼(とうしょ)戦という発想がなかったのです。大東亜戦争まで、日本陸軍の一貫した敵国はソ連であり、太平洋でアメリカと一戦を交えるといった発想自体がそもそもありませんでした。

中川は熟考を重ねて戦略を練り上げていきました。実は、中川は満洲からパラオに配置換えになった時、大連の港を出発する直前、参謀本部で島嶼戦について一人で研究していた堀栄三の話を聞き、それを詳細にメモしていました。そこで中川が初めて耳にしたのが艦砲射撃という概念でした。

米軍の軍艦の大砲は、陸軍のそれとは全く比較にならないほど強烈な破壊力がありました。軍艦一隻の大砲は、陸軍の兵力の5個師団にも相当し、その威力は厚さ2メートル以下のコンクリートはたちまち吹き飛ばされてしまうというのです。パラオに移る直前に知らされたこの現実は、中川にとっては衝撃だったに違いありません。事実、米軍はペリリュー島に軍艦を寄せ、中川隊の5倍の先鋭部隊を投入してきました。力の差は歴然でした。

では、中川はどのようにしてこれに対峙したのでしょうか。

中川がまずやったのは、音を立てずに米軍の上陸をじっと待ち構えることでした米兵の多くが上陸してしまえば、米軍は下手に艦砲射撃はできないと読んだのです。この読みは当たりました。戦闘に当たって中川は500以上ともいわれる島内の洞窟に坑道を掘って島全体を要塞化していました。そして米軍の上陸とともに徹底したゲリラ戦法を展開したのです。

硫黄島の戦いに引き継がれたペリリューのゲリラ戦法

この戦いによって日本軍は僅か1連隊にして、米軍の海兵連隊や陸軍歩兵師団に大打撃を与え、交替を余儀なくさせました。

これは特筆に値することです。兵隊の決死の努力は言うに及ばず、しっかりした指揮官がいなければ、ここまでの戦いはできなかったでしょう。

中川が主導したゲリラ戦法は硫黄島の戦いにも応用されることになります。

ペリリューの戦いの時、私は中学2年でしたが、新聞やラジオで毎日のように、その激戦ぶりを報道していたことを思い出します。天皇陛下も島の兵士たちをいたく気遣われ、軍事面での特別の功労があった兵士たちに贈られる嘉賞(かしょう)を中川隊に11回も出されています。

実際に兵士たちに届いたのは2回まででしたが、生還者の話では、この嘉賞は兵士たちを大いに奮い立たせたようです。

陛下が見守ってくださっていると思えば、千人力、万人力を得た思いだったことでしょう。大東亜戦争が終結した後も、34名の兵士たちが2年間洞窟内で生き延びました。アメリカ軍が残した食糧で食い繋ぎ、米軍兵士の鉄砲を手にしてゲリラ戦を続けていたことも日本軍の精神力を物語るものです。

与えられた条件をすべて生かして戦い抜いた陸軍の名将

このペリリューの戦いをとおして、私たちは当時日本軍が抱えていた様々な問題点を知ることができます。

島嶼戦を続けるための海兵隊を組織しなかったこともそうでしょう。サイパン島が陥落するまで島の守りに無頓着だったことが、日本を敗戦に追い込む引き金となりました。大正時代から準備していたアメリカとの差が大きかったのです。

だが、一方でそういう負の一面に立ち向かった将がいた事実を忘れてはいけません。中川はまさにそういう人でした。中川は人一倍の胆力の持ち主だっただけではありません。

戦いに臨むに当たっては徹底して戦略や戦術を練り上げ、僅かの期間に準備をしたのです。そして現に兵数、物量ともに劣る絶対的に不利な条件にも関わらず、敵が予想しなかった驚くべき互角の戦いを展開したのです。そこに、将として本来あるべき姿を見るのは私だけではないでしょう。


(本記事は弊社刊『忘れてはならない日本の偉人たち』〈渡部昇一・著〉から一部抜粋・編集したものです。)

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『忘れてはならない日本の偉人たち』渡部昇一・著

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◇渡部昇一(わたなべ・しょういち)
昭和5年山形県生まれ。30年上智大学大学院西洋文化研究科修士課程修了。ドイツ・ミュンスター大学、イギリス・オックスフォード大学留学。平成13年から上智大学名誉教授。著書は専門書の他に『伊藤仁斎「童子問」に学ぶ』『日本の活力を取り戻す発想』『歴史の遺訓に学ぶ』など多数。最新刊に『渡部昇一一日一言』(いずれも致知出版社)。

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