吉田松陰が高杉晋作に遺した最期の教え

吉田松陰の門下生として日本が大きく変わろうとする激動の幕末を駆け抜け、数え年29歳の短い生涯を終えた高杉晋作。「奇兵隊」の結成や「下関挙兵」など、時代の機を捉えた果敢な行動で、明治維新の原動力ともなった晋作の生涯は、私たち現代日本人の生き方にも多くのヒントを与えてくれます。30年以上にわたっ高杉晋作の研究に取り組んできた萩博物館特別学芸員の一坂太郎さんに、その生涯と晋作の果断な行動から見えてくる時代や環境の「機」を捉える要諦を語っていただきました。

高杉晋作の事蹟のうちで最も高く評価される「下関挙兵」

目まぐるしく情勢が変わっていく中で、長州藩内に武力で訴えてでも復権を図ろうとする勢力が台頭。1864年7月19日、軍勢を挙げて京に上った長州藩は、御所を守る薩摩・会津藩と激突、敗北を喫します。「禁門の変」「蛤御門の変」などと呼ばれる戦いです。

そして、7月23日、朝廷は御所に攻め込んだ長州藩を追討するよう幕府に命じました。これを受けた幕府は征長令を発し「長州征伐」に乗り出します。

しかしここに至り、長州藩内でも征長軍に謝罪、恭順しようという「俗論党」が台頭し、政権交代が起こります。晋作にも「俗論党」の追っ手がかかり、危険を察知した晋作は、福岡に潜伏し次の行動に出る機会を窺います。

この間も長州藩は、「禁門の変」の責任者として福原越後ら三家老が切腹させられ、中村九郎ら四参謀長が処刑されるなど、征長軍に恭順の意を表していきました。

晋作は居ても立ってもいられなくなったのでしょう。密かに下関へと舞い戻り、武力による「俗論党」政権打倒の決意を固めます。

しかし晋作の誘いに、奇兵隊も他の諸隊も応じません。それでも晋作は、いま決起しなければ「機」を失ってしまうと直感していたようです。晋作は、自分に従えない者に対して、「皆腰ぬけだ、ダメだ!」と激しく罵っています。

そのうちに、少数ですが、晋作に賛同する者が現れ始めます。遊撃隊と力士隊の約80名(異説あり)です。晋作はその80名を率いて、12月15日未明、下関にあった藩の出先機関である会所を襲撃します。これが後日、晋作の事蹟のうちで最も高く評価される「馬関挙兵」「下関挙兵」などと呼ばれる事件です。

志のフィルターを通してのみ、時代の「機」は見える

晋作は、最初から奇兵隊や諸隊への呼応も勝利も、すべてを計算していた「天才革命家」だったと評する人がいますが、私はそれは結果論にすぎないと考えます。

晋作が決起した時、藩政府には動員できる兵力が2000人もいました。2000人を相手に、80人で喧嘩を売ろうとする人間が、果たして計画など立てるでしょうか。

かつて晋作は、松陰に「男児たるもの、どんな時に死ねばいいでしょうか」という問いを発したことがあります。そして「安政の大獄」に連座し、伝馬町の獄に入れられていた松陰は、

「世に身、生きて心死する者あり。身亡びて魂存する者あり。心、死すれば生くるも益なきなり。魂、存すれば亡ぶも損なきなり」

「死して不朽の見込みがあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつまでも生くべし。僕の所見にては生死は度外におきて、ただ、言うべきを言うのみ」

との死生観を晋作に遺し、刑場の露と消えました。

おそらく晋作は、松陰の教えに従い、「機」を見た瞬間、成算の有無は度外視し、真っ先に戦いに身を投じることで決意を示そうとしたのではないでしょうか。人間はどうしても「いま行動して勝てるだろうか、負けるだろうか」という打算で物事を判断してしまいがちですが、晋作は心の中から己の損得を取り除き、そこに残る「志」を決断の拠りどころとしたのです。

そして晋作のように、志をフィルターにして一つの目的を直視する者にのみ、行動の「機」を見ることが許されるのだと思います。

※(本記事は『致知』2017年5月号、一坂太郎氏の「幕末の志士、高杉晋作の志に学ぶ」を一部、抜粋したものです。全文は4月1日発行の『致知』5月号をご覧ください)

 

◇一坂太郎(いちさか・たろう)
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昭和41年兵庫県生まれ。萩博物館学芸員、至誠館大学特任教授、防府天満宮歴史館顧問。著書に『高杉晋作考』(春風文庫)『幕末維新の城』(中公新書)『吉田松陰と高杉晋作の志』(ベスト新書)など多数。講演会、テレビ出演も多い。

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