2021年04月11日
長谷川町子さんによる国民的漫画作品「サザエさん」。1946年4月22日に福岡県の地元紙「夕刊フクニチ」でスタートし、1949年からは「朝日新聞」に移籍。1974年2月21日まで続く長寿作品となりました。アニメは1969年10月5日にスタート。「お魚くわえたドラ猫 ♪」で始まる主題歌は皆さんご存じのことでしょう。誰しもが親しむこの曲を歌う、宇野ゆう子さんの歩みをご紹介します。
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「サザエさん」人気の裏にあった葛藤
「お魚くわえたドラ猫♪」で始まる主題歌は、多くの方がご存じのことと思います。先日も、歌声の主である私の前を、ランドセルを背負ったかわいい小学生が大きな声で「サザエさん」の替え歌を歌っていました。
シャンソン歌手である私の顔があまり知られていないおかげで、まるでかくれんぼをしている時の子供のように、ワクワクした気持ちになります。
シャンソンに出合ったのは高校1年の時でした。当時音楽科の生徒でありながらクラシックに馴染めず、思い悩む日々が続いていました。
ある日、学校の帰り道にあるレコード店で、たまたま手にしたのが深緑夏代さんの「ムーラン・ルージュ」。シャンソンという言葉すら知りませんでしたが、初めて聴いた時の衝撃はいまだに忘れられません。「これだー!!」。私の中の何かが目を覚ましました。
東京にあったシャンソン喫茶「銀巴里(ぎんパリ)」は、18の私が初めて舞台に立った思い出の場所です。当時私を指導してくださっていた宇井あきら先生が大学に受かったお祝いに取り計らってくださったのです。
その後、私は東芝レコードの専属歌手になり、子供向けの歌を中心に歌っていました。
ある日、レコーディングの最中に、突然筒美京平先生が入ってこられました。「サザエさん」の作曲者です。ほんの2、3分だったでしょうか。初めての譜面を渡され、ピアノに合わせて声を出す、それがオーディションだったのです。
サザエさんであれば色気がないほうがいいだろう。これが決めてとなり、私に白羽の矢が立ちました。それでも私は選ばれたことに素直に喜んでいました。アニメの人気が高まるに連れて、「サザエさん」の曲を多くの方が耳にするようになりました。
しかし、あくまで私はシャンソン歌手。アニメ主題歌の歌声は子供向けに歌っているため、シャンソンを歌う時とは声がまったく違います。
気づけば、シャンソン歌手としての私のプライドが頭をもたげてきました。「私の本当の声はこうじゃないんだ。私の本当の歌声を聴いてほしい」。この心のしこりは私の胸に長く止まることになりました。
明るい笑顔に幸せがついてくる
アニメ放送開始から1年ほど経った頃、私は仕事のご縁で、ある養護学校を訪ねました。初めての体験です。体の不自由な子供たちの仕草を前に、思わず涙が溢れることもありました。それでも、元気を出して「サザエさん」を歌うなどして、失礼がないよう精いっぱい頑張りました。
これを機に、私は毎年必ずボランティアで、各種学校を訪ねるようになりました。いまでは病院や老人ホームなどもかなり回っていますが、音楽の持つ力には本当に驚かされます。
例えば、5年間声を全く出せなかった方が、音楽に合わせて、うーうーと声を発する。目や、つま先だけを動かして、一緒にリズムをとろうとする。そんな姿を前にすると、私は胸が熱くなります。こうした場を通じて、「サザエさん」の歌は、人を励ますために欠かせないものとなっていきました。
最も心に残っているのは、阪神・淡路大震災が起きた1995年です。「サザエさん」の放送が始まって25年の月日が流れていました。
神戸にはファンクラブの方が多くいらっしゃいましたが、震災後なかなか連絡が取れません。一週間して、やっと繋がった時、なにかできることはないか、と尋ねました。もっとも、私ができることは歌うことくらいです。
「1か月待ってくれ、用意する。ただ、いまは自分たちのことで精一杯だ」
この返事が事態の深刻さを物語っていました。1か月後約束どおり、現地に立った私は言葉を失いました。震災の傷跡が色濃く町を覆っています。恐怖で声が出なくなった犬がいました。まだ、みんな傷だらけです。
こんな中で歌なんか歌えるわけがない。そんな思いに沈む私を尻目に、マイクなどの機材が用意され、学校や公園など、会場の準備も進められました。
ステージに立つ私の目の前には、突然の震災で多くを失った方々ばかりです。想像を絶するほどの悲しみの淵に直面していた方も大勢いたはずです。それが、「サザエさん」を歌い始めると会場は一変。弾けるような笑顔と歌声が会場を包み込み、大合唱となりました。
「サザエさん」の四番の歌詞の冒頭にこんな一節があります。
「明るい笑顔に幸せがついてくる」。
何度となく歌ってきたはずのフレーズにこの時初めてハッとしました。歌だけを歌って果たして何ができるのか。そんな思いを、会場を埋め尽くした「明るい笑顔」が吹き飛ばしてくれたのです。
一人でも多くの人が苦難を乗り越え幸せになってほしい。この思いのたけを、私は歌に込めました。
この歌がなければ私はいない、いまは心からそう思っています。これからも、一人でも多くの人に明るい笑顔を届けられるよう、燃えるような情熱で歌い続けていきたいと思います。
(本記事は『致知』2010年6月号 連載「致知随想」より抜粋・編集したものです) ◎各界一流プロフェッショナルの体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。人間力を高め、学び続ける習慣をお届けします。◇宇野ゆう子(うの・ゆうこ)
東京都出身 武蔵野音楽大学短期大学部声楽科卒。5才から童謡歌手として「ラジオ東京」(現TBSラジオ)専属となる。「今日でお別れ」の作曲家、宇井あきら氏に師事。18才の時シャンソン界の登竜門「銀巴里」に出演。短大在学中にNHKのオーディションに合格。NHK教育TV「できるかな」のレギュラーに。1969年、東芝レコード専属。1973年よりパリ・ドイツに勉学。1983年よりシャンソン・フェスティバルに参加。1985年、第一回全国コンサート・ツアー「MESSAGE」スタート。以後毎年コンサート及びディナーショーを開催。