逸話に見る安岡正篤師 師弟同行の教育

先生は学校のような形式的なものではなくて、生活を一緒にしてその中から人間形成をしていく、いわゆる師弟同行の教育を一つの理想としていました。
金鷄学院をつくったのも、日本農士学校をつくったのも、そういう目的からです。
ところが金鷄学院が先生の思ったようにはいかなかった。
学院には知事の推薦を受けたような全国の優秀な学生が集まったんですよ。
竹葉秀雄とか菅原兵治とかいうような多士済済がね。
それで一年ぐらいは先生も寝食を共にされて、先生の意に沿うような師弟同行の教育をされたわけです。

しかし、そのうちに先生が社会的にだんだん有名になると、あちこちから講演会だなんだといって引き出されるものだから、学院を留守にすることが多くなった。
するとどうしても、いろいろ問題が起こってくるようになったんです。
優秀な青年を集めているものですから、皆、強い個性がある。
先生がおられるときは一致して勉学に励んでいたのですが、先生が留守がちになるというと、次第に内部にタカ派とハト派といった派閥ができてきた。
そして、先生がおらなくなるとタカ派のほうが強くなり、先生がおられるとハト派のほうが勢いづくといった様子になった。

そのうちに思わぬ事件が起きたり素志に反する者が出てくるようにもなった。
そういう経験から先生は私に「教育は師弟同行であるから常に先生は弟子のそばにいないといけない。
弟子が立派になるのはいいが、先生が有名になってはいけない」とおっしゃって、「自分の失敗を繰り返すな」と戒められたんですね。

先生はじっくりと教育をして、そして教えられた者が立派になるというのが教育者の務めである。
教育者そのものが有名になるのは教育の邪道であると言われたわけです。
よい教育者であればあるほど名声は高まるというものですから、この先生の言われることはなかなか難しいのですが、教育の第一の目的は人を育てることです。
それを忘れてはいかんということを、先生は自戒を込めておっしゃったものと思います。

(伊與田覺著『安岡正篤先生からの手紙』より)