逸話に見る安岡正篤師 八代大将とのご縁
安岡先生が特に関わったのは海軍であったかと思います。 新聞などでもよく、陸軍の大川周明、海軍の安岡正篤と並び称せられていましたが、これはもともと八代六郎海軍大将とのご縁が始まりだということは有名な話です。
八代大将は海軍大学の校長や海軍大臣などの要職を歴任された日本海軍の重鎮でした。 尺八が得意で、日露戦争で戦艦赤城か何かの艦長をされておった時、艦橋で尺八を吹いていたというエピソードも残っているほどの勇将でした。 陽明学の研究もされていて、安岡先生が大学を卒業する時、記念に書かれた『王陽明研究』を読んでいたく感動され、ぜひ一度会いたいと、安岡先生を自宅へ招かれたのです。 その時八代大将は六十三歳で、確か予備役で軍事参事官を務めておられた頃だったと思います。 対する安岡先生は弱冠二十六歳でした。
八代大将とは夕方五時頃から酒を酌み交わしながらいろんな話をして、安岡先生も非常に感銘を受けたそうですが、お話の中に納得できない点がありましてね。 「将軍、異論がございます」と率直に言われて、相当の激論になっていったらしいのです。 安岡先生も、いかに相手が海軍大臣であろうと、自分の学説や信念をまげるつもりはありませんから、真正面から堂々と八代大将の見解に反駁(はんぱく)したのです。 議論は白熱して夜中の十二時を回っても終わらず、その間に二人でお酒を五升も平らげてしまったといいます。 とうとう奥様が出てこられて安岡先生に、「あなた、もうお帰りください。主人も年ですから」とおっしゃったんです。 先生がハッと我に返って、「大変失礼しました」と辞去しようとすると、八代大将は「逃げるか!」と。 もちろん先生も逃げるつもりはありません。 そこで、お互いに一週間よく考えて、間違っていたと思ったほうが相手に弟子入りしようと約束して別れたのです。
自宅へ戻ってから安岡先生は、悪いことをしてしまった、とお礼状も書けずにおったそうですが、一週間目に八代大将が羽織袴で訪ねてこられたと。 そして、「よくよく考えたらわが輩が間違っておった。きょうからは弟子にしてくれ」とおっしゃったそうです。 酒の席のことだから、と断っても頑として承知されずに、以来亡くなるまで安岡先生のことを「先生」と呼び続け、宴席では絶対に安岡先生の上座には着かなかったそうです。
安岡正篤記念館名誉館長・林繁之(平岩外四、林繁之著『安岡正篤人生の法則』より)