2019年02月20日
小林義功和尚は、禅宗である臨済宗の僧堂で8年半、真言宗の護摩の道場で5年間それぞれ修行を積み、その後、平成5年から2年間、日本全国を托鉢行脚されました。今回もまた四国霊場巡り。険しい山道を歩きながら札所を廻る義功和尚の姿が目に浮かびます。
藤井寺から焼山(しょうざん)寺
藤井寺さんのお堂をお借りして1泊。次は十二番札所・焼山寺に向かう。ここは八十八ヶ寺札所の中でも難所中の難所である。ここさえ突破出来れば後は大丈夫。全部廻れるとのこと。
ここから13キロだ。麓から山の頂に。そこから、谷に向かって下降する。そして再び山に向かう。健脚の者で5時間だという。そして、下山だ。その間、何があるか・・・予測不能である。知らない土地だし先達(案内人)もいない。となると十分余裕を持って、1日は掛かるか。
朝8時に本尊さまと御大師さまのお参りを済ませて、早々に出立した。険しい遍路道を上る。道は複雑だ。
丸太を横に渡しただけの階段がある。雨で川になったか。深く抉(えぐ)れた道もある。落ち葉の道は心地いいが。1歩足の置き場所を間違えると足を滑らせ横転する、そんな道もある。その連続といっても可笑しくない。そこで役に立つのが金剛杖である。この杖は1本の棒ではない。1本の足である。2本の足が3本の足になると鬼に金棒。はるかに安定する。これは面白い発見であった。
遍路道で同行二人という札にしばしば出逢う。弘法大師さまがいつも一緒だというメッセージである。メッセージであるより、私は一緒にいるという実感が欲しい。
歩いていると石仏に出会う。出会うと般若心経を唱える。が、この遍路道には石仏がやたらと多い。そのたびに止まっていたら、日が暮れる。
そこで考えた。石仏を見たら、心経を唱える。足は止めない。次から次へと繰り返した。必死である。必死に唱えればお大師さまのお姿に出会えるかも。そんな期待もある。現実に自分の目でそのお姿を見たら、同行二人の確証が掴める。だから、唱えれば唱えるほど熱が帯びる。真剣であった。しかし、お姿を拝むことは至難である。出来なかった。
ともかく、この難関を突破して下山した。これ以上の難所はもはやない。この御蔭で脚力に自信は持てた。しかし、四国を廻りきるのは体力だけではない。何処まで行けるか、その自信はなかった。
御大師さまはここに生きている
それから4泊して太龍寺に来た。四国の高野山といわれる大寺院である。今は観光地で賑っているが、お大師さまがこの山に踏み込んだ当時は、無論寺もない。鳥か獣ばかりの道なき山。樹木と藪を搔き分けて進んだ。こんな山の奥く深く・・・感動した。
その御大師さまが虚空蔵菩薩求聞持法を厳修し神秘体験をされた。その岩盤が眼前にある。さほどの広さはない。その1・2メートル先は切り立った崖だ。下を臨めば足が震える。それほど深い。その崖がそのまま山の裾野に繋がり、東から南へと広大に拡がっている。その向こうは太平洋。海だ。その海と大空とが交叉している。この全景がパノラマのようにここから一望できる。
記憶力抜群の天才が、この奥深い山で孤独にひたすら行に励む。地位も名誉もない。血族も、無論立身出世も全て捨てた。捨てて何を求めたか。仏道に命をかけた。しかも、実践した。その勇気、気迫に絶句し圧倒された。翻って、ここまで徹底しないと悟れないのかと思うと、私などは如何したらいいのか。すっかり落ち込んでしまった。
辺りはどんどん暗くなっていった。大きな寺だから、何処か泊めてくれるだろうと楽観していた。寺務所に廻って、用件をいうと、
「宿泊はしていません」
とあっさり拒絶された。大木が林立して空も見えない。真っ暗である。途方に暮れた。寒い。すると、
「懐中電灯ならありますよ。下の龍山荘に置いとけばいいですから」
と手渡してくれた。この寒い闇の中助かった。懐中電灯を照らして山道を下った。シーンと静まり返っていた。物音一つない。30分、40分か民宿龍山荘に投宿した。荷物を置いてすぐ風呂に入った。12月の寒さは堪える。湯船の温もりに体を浸す。格別だ。ホッとしていると隣にいた叔父さんから声を掛けられた。
「どちらから来ました」
「鹿児島から」
托鉢しながらここまで来たこと。全国を廻るつもりですとポツポツ話した。そして部屋に戻った。部屋にはお遍路さんのグループがそれぞれ固まって雑談をしている。先ほどの叔父さんもそのグループの1つにいた。しばらくしてその叔父さんが私のところに来た。何かと思ったら、
「これをどうぞ」
とお布施を頂いた。5、6人いたか。皆が出し合って喜捨をしてくれたのだ。お礼を言いながらも思った。この土地はやはり違うと。行をする者に親切だ。これがお四国だ、御大師さまはここに生きていると感激した。