2018年12月05日
小林義功和尚は、禅宗である臨済宗の僧堂で8年半、真言宗の護摩の道場で5年間それぞれ修行を積み、その後、平成5年から2年間、日本全国を托鉢行脚されました。毎回ハラハラドキドキの当連載、今回は鹿児島から行脚をスタートした義功和尚は本州へと足を踏み入れます。
安徳天皇を偲んで
桂川町からまっすぐ北上し関門海峡を目指した。ここまで来たら九州も終わりだ。問題はその先である。関門トンネルを抜け対岸に渡れば、海の向こうは山口県下関市である。
通常なら右回り。山口から島根、鳥取と日本海に沿って北上するが・・・。すでに11月。冬である。12月、翌年1月ともなればこの山陰は豪雪地帯。雪の中を1軒1軒托鉢する。
う~ん・・・これは不可能だ。しかも冷たい雪にまみれて・・・どうして暖を取るか。冒険どころか、無謀である。どう考えても不可能だ。やはり下関から山陽道を東にとるか。瀬戸内海沿いであれば気候は温暖だ。雪に逢うかもしれないが、それの方が無難だ。
あれこれ思案を廻らせながら、3日後、九州の玄関口、北九州市門司に着いた。11月10日のことである。
高台から眺めると関門海峡は以外と狭い。が、大型輸送船、タンカーは通る。何はともあれ海峡といえど海は海だ。海は広いものと勝手に想像していたが。どうやら私の思い違いであった。
余談ですが、この海峡から瀬戸内海にかけての海域は航海士にとってなかなかの難所。潮の流れが速いし、時間によってその流れも変る。また、複雑な海岸線と点在する島々。そこを航海できるようになると世界の海はどこでも航海できると。
そうそうここは源平最後の激戦地でもある。平家物語の壇ノ浦の戦いは有名である。戦いは潮の流れである。最初、東から西に流れる潮の流れに乗って戦を有利に進めたのが平家である。激しく源氏を責め立てたが、源氏は耐えた。必死に耐えた。やがて、潮の流れが逆転すると守りから攻撃に転じた源氏が勢いを盛り返し平家を壊滅する。
しかし、そのクライマックスは、やはり安徳天皇ではないか。敗北を必死と見た二位の尼はこの幼帝を抱いて船端に立つ。不審に思った帝は問いかける。
「尼よ、われをどこへつれてゆくか」
最後の一言がこれだ。局が幼帝を抱きしめ
「波の下にも都がありましょう。・・・(私が)極楽浄土という美しい国にお供してまいります」
といって入水(じゅすい)する。美しくも悲しい平家滅亡の結末に多くの日本人は感動し涙を流す。それにしても、この安徳天皇の死は何故の死か・・・。源平の戦いの犠牲者か・・・。
戦を知らず、策略を知らず、怒りも人殺しも蚊帳の外。その幼い天皇が何故の死か。運命だといい、犠牲者だというには余りに哀れである。神や仏がある。というならその理由は何か?・・・、あえて言えば平家の悪行、その悪行を幼い命と引き換えに、美しい物語に仕立てて浄化したのか。いずれにしても涙、涙の悲劇であることに変りはない。
昔の戦場も今は穏やかである。この海峡を徒歩で渡れるという。渡るといっても海底を歩く。いや、海底よりさらに深く掘削したトンネル(関門トンネル)。これを歩く。頭の上が海である。これは面白い。
まずエレベーターに乗った。乗員20名と大型である。シーズンオフの為か乗客は3名。ゆっくりと地下50メートルの地点まで下降して、そこから海底トンネルである。
人間と自転車の専用通路で、その上にもう一つのトンネルがあり無数のクルマが走行している。この二つのトンネルを関門トンネルという。この頭上に海水が満々と湛えられている。空想すると楽しいのだが、ともかくトンネルを歩いた。直線距離で10分。実際はただトンネルを通過した。ただそれだけであった。
この関門トンネルが計画されたのは昭和7年。途中戦争で中断され、昭和33年に完成。実に26年の歳月が掛かっている。大変な工事である。この工法技術が青森、函館をつなぐ世界一の青函トンネル(海底トンネル)に挑戦する原動力になったことは申すまでもない。
突然の心境の変化
全国行脚からすればまだまだ。しかし、九州は終わった。一つの区切りではある。関門海峡を渡るまでは『早く早く』という急ぐ気持ちが常にどこかで働いていた。
ところが下関市を歩き始めたら、ホッとした気分と共に心境がガラッと変った。どんなに行脚を急いだところでポツポツ歩く速度は知れたもの。1年が半年になるものではない。慌てても仕方がない。そう思ったら、張り詰めていた気持ちがスーッと抜けてゆったりとした気分になった。
国道を東に歩いていると乃木神社と忌宮(いなみや)神社の標識があった。乃木大将の出身地は山口県か・・・。参拝しようと左に折れると、そこは門前町。沢山の小さな店が並んでいる。早速托鉢を始めて中ほどまで来ると、舗道でリヤカーを据えて大福もちを売っていた。
通過しようとしたら、そのお婆さんが喜捨をされた。少しお話をしてから神社に向かい参拝を済ませ、帰りは参道から外れた別の道を国道に向かうと、先程のお婆さんとバッタリ出会った。店をたたんでリヤカーを引いての帰り道だ。
「一緒に行きましょう」
というので歩調を合わせて歩く。御歳80才。元気です。歩いていると次々声が掛かる。えらい人気者である。この商売を始めて40年。子育ても終わり生活の心配もない。商売のお金は全部福祉に寄付しているとポツリポツリと語る。道行く人々の眼差しの暖かいこと。私の心まで暖めてくれました。