2024年06月07日
一面に広がる18ヘクタールの山地(やまち)を、牛たちが気の赴くままに草を食み、歩き回る……。大地に根差したこの牧場で生まれる牛乳が、常識を超えた〝奇跡〟を起こしています。恩師・猶原恭爾博士が最後の希望を託した「山地酪農」理論に日本の農業の光を見、10年間電線も通らない山林を開墾。乳糖不耐症の人も多く愛飲するという「田野畑山地酪農牛乳」を開発した吉塚公雄氏は、いかに理想を実現したのか。実現に至る苦悩の日々を振り返っていただきました。
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本物を目指す道は遠く
──どのように開墾に目途をつけていかれましたか。
〈吉塚〉
熊谷先輩が一家で牧山づくりに取り組むのを見て、まだ小さかった長女や長男に枝の処理や牛の誘導なんかを頼んで、家族一丸で必死に山を拓いていきました。
10年経って電気が通った時には、嬉しくって皆で家中のスイッチを押して回りましたね(笑)。
そして、あれは14、5年目でしたかね。地元の幼馴染が久しぶりに会いに来てくれて、ここをひと目見るなり「おい吉塚、この牧場いくらで買った?」と言うんです。涙が出るほど嬉しかった。
自分が切り拓いた農場が、この男には昔からの牧場に見えたんだと。気づいたら手で植えたシバが密生して、一面緑になっていました。《画像提供=田野畑山地酪農牛乳株式会社》
ただ、生活はずっと苦しかったです。放牧していた牛のお乳は農協に納めていましたが、母ちゃんが嫁いできた時、1か月の清算表に書かれた手取りは7円でした。
──ああ、たったの7円。
〈吉塚〉
米や味噌といった最低限の食べ物は農協にツケで頼めましたけどね。乳価も安かったです。当時は水が1ℓ100円で売っていましたが、牛乳は1ℓ86円くらいだったかな。しかも自前の草だけで育てる山地酪農で採れるお乳の量は、飼料をたっぷり与えた乳牛の3分の1程度です。
選んだ道とはいえ、牛乳の取引は非常に厳しくて、うちの牛乳は成分や乳量を理由にいつもCランクでした。「山地酪農=ダメな牛乳」という印象を与えていましたね。年収は100万いくかどうか。そこに年間100万円、借金のための借金を重ねていくわけです。
──理想を追い求めるほど、自分の首が絞められていった……。
〈吉塚〉
ですから親として、子供たちをデパートや動物園に連れていってあげられたことは一度もありません。物質的な意味で何かをしてあげることがまるっきりできなかった。できることと言えば、子供に辛いこと、いいことがあったら、ちゃんと受け止めてあげる。それしかなかったですよ。ただでさえ貧しい岩手の田舎、その中でも最低の生活でしたよね。
しかし入植して20年、限界が訪れました。農協の体制が変わって、負債を返さない農家にはもうお金を貸さないと。さらには返さなければ農地を取り上げるという話が聞こえてきたんです。
ギリギリまで追い詰められた吉塚さん。現在全国から注文が殺到する〝奇跡の牛乳〟は、この逆境からいかにして生まれたのか――。
◉『致知』2024年6月号 特集「希望は失望に終わらず」◉
インタビュー〝「理想に向かって歩む自分を喜べ」〟
吉塚公雄(田野畑山地酪農牛乳会長)
↓ インタビュー内容はこちら!
◆山地の自然力を生かし切る
◆人生を方向づけた恩師の切願
◆身一つで山林を切り拓く
◆本物を目指す道は遠く
◆一家離散か成功か一世一代の賭け
◆大切なのは理想に向かう自分であること
◆子々孫々への最大遺物
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◇吉塚公雄(よしづか・きみお)
昭和26年千葉県生まれ。東京農業大学を卒業後の49年、岩手県下閉伊郡田野畑村に単身移住。平成8年「田野畑山地酪農牛乳」発売。21年田野畑山地酪農牛乳株式会社を設立。令和4年より現職。著書に『ひと草楽薬』(naturavia)、一家の軌跡を追った映画『山懐に抱かれて』(テレビ岩手)がある。