2023年10月20日
京セラやKDDIを一代で世界的企業に育て上げたのみならず、不可能といわれた日本航空(JAL)の再建を3年弱で成し遂げた稀代の名経営者、稲盛和夫氏。惜しくも2022年8月に90歳で亡くなられましたが、その教えはますます輝きを放ち、私たちの行く道を照らし続けています。それぞれ50年と30年、稲盛氏の薫陶を受けてきた石田昭夫氏と大田嘉仁氏に、組織や年齢といった立場を越えて、人々を魅了する稲盛氏の生き方、教えについて語っていただきました。
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安易な妥協は許さない
〈石田〉
1975年のアメリカでの預託証券(ADR)発行は、稲盛さん、京セラにとって大きな転機になったと思います。
当時、私は日本の証券会社から外資系のメリルリンチに移り、国内企業に事業戦略のアイデアを出して、海外を含めた資金調達やM&Aを手掛けていました。それで稲盛さんに、京セラが1969年に営業所を開設していたアメリカでの株式公開を提案し、ADR発行をお勧めしたんです。
「アメリカにちゃんと受け入れられるために、現地で上場して企業としてのアメリカ市民になりませんか」と。
〈大田〉
その時、私はまだ入社していませんでしたが、「京セラのような中堅企業がADRを発行するのは稀だ」などと新聞に書かれてあるのを読み、とても印象に残ったことをいまでも覚えています。
〈石田〉
ADRは、日本ではまだ関西電力やソニーが1960年に発行した以外、例のない時代でしたからね。
〈大田〉
おそらく、石田さんとの出逢いがなければ、稲盛さんもアメリカでADRを発行しようなどとは絶対考えなかったでしょう。
〈石田〉
実際、がむしゃらに働いて京セラを牽引してきた当時の稲盛さんは、財務や経理についてはあまり詳しくご存じなかった。ですから、ADRの売り出しに必要な連結会計処理についても、稲盛さんは財務部長以上に基礎からものすごく勉強なさったんですね。
アメリカの弁護士、公認会計士も入り、英語が飛び交う中で、稲盛さんは安易な妥協は決して許さず、たとえ夜中になろうとも、自分が分かるまで質問し、聞き続けていました。私たち投資の専門家が開眼させられる瞬間も度々ありました。
すべてを理解して、納得してやるのが稲盛さんのやり方でしたが、そんな経営者はそれまで見たことがありませんでした。
相手に報いる経営を貫く
〈大田〉
石田さんの提案は、財務の部分もそうですが、いろんな意味で稲盛さん、京セラが一気にグローバル化する大転換点になったと思います。事実、上場してアメリカの市民権を得たことで現地企業の買収もしやすくなりました。
〈石田〉
ええ、電子部品などの製造販売では好敵手だったAVXの買収がそのよい例です。この件も、私どもがお手伝いさせていただき、日本企業としては初めて、現金を使わない株式交換の形で米国企業の買収を成功させました。
しかし、株価がすべてである企業買収のネゴシエーション(交渉)中、自社株価に有利になる事象が起こる度に、自社の買収価格を上げるように要請してきました。
あまりにも度重なる要求に「こんな要求は拒否しましょう」と進言したのですが、稲盛さんは、「日本企業としてニューヨークの上場企業を買収するのだから、相手に利益が残るように報いたい。気持ちよく働いてもらいたい」との思いやりを示されたのです。
その後、京セラの電子部品グループになったAVXは京セラの多大なるサポートのもと、当時の数倍にもなる業績を上げる立派な会社になりました。
〈大田〉
要するに、稲盛さんが大事にされた「利他の心」ですね。
そうした稲盛さんの姿勢に対して、当時、周囲やメディアから「軟弱だ」「譲り過ぎだ」「失敗する」などという声が上がりましたが、結果として、当時の日本企業によるアメリカ企業の買収でうまくいったのは、AVXだけでしたね。
〈石田〉
稲盛さんの相手に対する利他の心が返ってきたんですよ。それも計算ではなく、本心から相手のことを思っていたからこそ、返ってきたのだと私は思います。
〈大田〉
そのAVXの社長を務めていた方に、社内インタビューをしたことがあるのですが、「稲盛さんが嫌な顔一つせず、あそこまで我われの要求を受けてくれるとは思わなかった」「だから、我われは稲盛さんに恩を返そうと決めてついていったんだ」と言って、涙を流されたんです。
これが単に買収すればいいという姿勢であれば、相手の経営者や社員の心が離れてしまい、結局うまくいかなかったでしょう。自己犠牲を払ってでも無理をしてでも、相手の気持ちを大事にされたからこそ、「稲盛さんについていこう」という一体感、求心力が生まれていったのだと思います。
〈石田〉
一体感といえば、私は京セラの社員でもないのに、事あるごとに「ちょっと来い、いまの態度はなんだ」「働き方をもっとしっかりせんかい」と、すごく怒られました。私以外の人に対しても同じような感じでした。なぜ他の会社の社長にここまで言われるんだろうというくらいに(笑)。
おそらく稲盛さんにとって一緒に仕事をする人は、自社の社員であろうと他社の社員であろうと同じ仲間だという思いがあったのでしょう。
〈大田〉
きっと、石田さんもチーム京セラの一員として見ていたのだと思います。稲盛さんには、お客様であっても、たとえ競争相手であっても、自分のほうにどんどん引きつけて、巻き込んでいける魅力があるんです。
(本記事は月刊『致知』2023年10月号特集「出逢いの人間学」より一部抜粋・編集したものです)
◉本記事では、「情熱の塊だった40代の稲盛さん」「やる気を引き出す全員参加型経営」「稲盛さんはいまも心の中に生きている」等、稲盛氏の薫陶を受けてきた石田昭夫氏、大田嘉仁氏に、稲盛氏の人となりとその教えについて繙いていただきました。稀代の名経営者とともに仕事をする中で掴んだ生きた教えの数々に、人生・仕事を発展させる極意が散りばめられています。本記事の【詳細・購読は下記バナーをクリック↓】。
◇石田昭夫(いしだ・あきお)
昭和17年東京都生まれ。ウッドベリー大学国際経営学部卒。平成13年メリルリンチ日本証券株式会社副会長。18年TPGキャピタル株式会社日本副会長。平成24年株式会社日本産業推進機構を設立し、副会長に就任。平成4年7月に稲盛和夫氏に学ぶ「盛和塾」に入塾、28年4月から30年3月まで盛和塾東京の筆頭代表世話人を務める。
◇大田嘉仁(おおた・よしひと)
昭和29年鹿児島県生まれ。53年立命館大学卒業後、京セラ入社。平成2年米国ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA取得)。秘書室長、取締役執行役員常務などを経て、22年日本航空会長補佐専務執行役員に就任(25年退任)。27年京セラコミュニケーションシステム代表取締役会長に就任。現職は、MTG取締役会長、学校法人立命館評議員、鴻池運輸取締役、新日本科学顧問、日本産業推進機構特別顧問など。著書に『JALの奇跡』(致知出版社)、『稲盛和夫 明日からすぐ役立つ15の言葉』(三笠書房)などがある。