2023年10月19日
「落語は人間の業の肯定」という独自の落語哲学を打ち出し、天才と称された伝説の落語家・立川談志。そんな談志の下、9年半に及ぶ前座修業を積んだのが、立川談慶さんです。「現実が事実」「評価は他人が決める」との考えに則った完全実力主義の厳しい指導の裏に隠された談志の想いとは。談慶さんの修業時代を通して、教育者としての談志の素顔、人生を切り拓く秘訣に迫ります。
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「努力はバカに恵えた夢」
〈談慶〉
将来は人を笑顔にする仕事、落語家になりたい──子供の頃から漠然と抱いていた夢を叶えてくれたのは、天才落語家・立川談志でした。
忘れもしない落語研究会に所属していた大学時代。先輩に勧められて立川談志の落語を初めて生で聞いた時、その達人芸に雷に打たれたような衝撃を受け、以後私は談志の追っかけになったのです。
談志は、饒舌な語り口や枕(本題に入る前の導入部。花鳥風月をテーマにするのが一般的だった)で時事問題を語るなど、落語の常識を覆すスタイルを確立したまさに天才。談志との出逢いが、私の人生を大きく変えていきました。
大学卒業後、一度は衣料品メーカーに就職。しかし、落語、談志への思いは断ち切れず、3年間のサラリーマン生活に別れを告げ、立川流の門を叩いたのです。1991年、25歳の時でした。
落語界は身分制度が厳然としており、「前座」「二つ目」「真打ち」「大看板」、ご臨終(笑)と階級がありますが、二つ目で初めて落語家として認められます。立川流に設けられた「古典落語50席に歌謡音曲」という昇進基準を目指す日々が幕を開けました。
前座修行は常に師匠の傍につき、雑用をこなしながら合間で稽古を受ける基本無給の生活です。収入は老人ホームでのボランティア落語会など、自ら掴んだ仕事で稼ぐしかなく、現実は想像以上に厳しいものでした。
というのも、立川流は「現実が事実」「評価は他人が決める」との考えに則り、結果がすべての完全実力主義。「努力はバカに恵えた夢」という談志の言葉の通り、努力を努力と思い込んでいるうちは駄目。努力するのは当たり前で、常にそれ以上を求められました。ただ、その分、基準をクリアすればいつでも昇進できる公平な一門でもありました。
ドジな私は厳格な基準に苦しみ、また、出稼ぎに必死で稽古を蔑ろにしていた時期もあり、通常2~5年で終える前座修行に5年の月日を費やしていました。その間、弟弟子である談笑が二つ目に昇進。この悔しさを糧に、踊りを5曲覚えろと言われたら10曲覚える、指示された量の倍をこなし、芸と向き合い続けました。
プライドを捨てる覚悟の有無が人の限界を左右する
〈談慶〉
気づけば入門して8年──。ここで勝負しなければ先はないと覚悟を決め、自ら志願して昇進試験の開催が決定しました。会場に駆けつけてくれた友人や同胞の期待を背負い、これを逃せばチャンスはないと背水の陣で臨みました。しかし、「まだ二つ目にするわけにはいかねえ」という談志のひと言であっけなく終演。
その時、談志にかけられた「あそこでおまえを昇進させなかったのが俺のすごさだ」との言葉の真意も理解できず、これまでの芸がすべて否定されたような喪失感に苛まれました。そして、私は前座の身分では御法度であった結婚を決断。談志は渋々認めてくれたものの、以降、私の覚悟を試すかのように稽古は厳しさを増していきました。
とうとう修行は9年目に突入。これは一生前座だな──。諦めかけた私の背中を押してくれたのは、いつも傍で支えてくれたカミさんでした。
「談笑さんは元塾講師。アドバイス上手なはず」
私を抜いて二つ目に昇進した弟弟子に相談するなどプライドが許しません。でも、このままでは何も変わらない。悩んだ末、くだらないプライドを捨て、談笑に教えを乞いました。すると、談笑は親身にアドバイスをくれたのです。
この時、小さなプライドが成長の邪魔をしていたことに気づかされました。凝り固まったプライドは自分の立場を守るための言い訳にすぎず、成長のブレーキになる。プライドを捨てる覚悟の有無が人の限界を左右するのです。
〝人生の師〟という存在
〈談慶〉
その後は弱点克服の練習に加え、談志の元に足繁く通い、どれだけ罵倒されようと鍛錬を重ねました。そうしてついに、「よくやった、二つ目合格だ」との言葉をもらい、9年半の前座修行に別れを告げたのです。2000年、私は34歳になっていました。
2005年には真打ちに昇進。不器用な私が現在も落語家として活動できているのは、談志の厳しい教育があったからに他なりません。もし情けで昇進させてもらっていたら、いまの私はなかったでしょう。
弟子を抱えるようになって痛感しますが、師は弟子に優しくするほうが楽なのです。しかし、談志は違いました。譬え自分が嫌われようとも、心を鬼にし、鍛えてくれたのです。本当に辛かったのは私ではなく、談志だったことがいまになってしみじみと理解できます。弟子のことを思い、逞しく育ててくれた談志は間違いなく最高の教育者でした。
談志は2011年に惜しまれながら亡くなりました。談志に出逢わなければ、平穏で幸せな人生だったと思います。しかし、もしもう一度人生をやり直せるとしても、談志の弟子になる道を選びます。
そうした経験を通して私が若い世代に伝えたいのは、この人になら人生を懸けられるという〝人生の師〟を見つける大切さです。その人生の師に出会ったら、とことん信じ抜いてほしい。信じれば行動が変わり、行動が変われば習慣が変わり、習慣が変われば必ずよい結果に繋がります。
私は師への恩返しとして、『武器としての落語』をはじめ、20冊以上の著書を通して、談志の教えを後世に残すべく活動しています。談志の信念を伝えることが、長く教えを賜った私の使命です。
(本記事は月刊『致知』2023年2月号連載「致知随想」より一部抜粋・編集したものです)
◇ 立川談慶(たてかわ・だんけい)
昭和40年長野県生まれ。63年慶應義塾大学卒業後、(株)ワコール入社。平成2年吉本興行福岡1期生オーデションに合格。3年ワコールを退社、吉本興業も退所後、立川流Aコースに入門「立川ワコール」を名乗る。12年二つ目に昇進、師匠7代目立川談志による命名で「立川談慶」に改名、17年真打昇進(慶應義塾大学卒初の真打)。著書に『武器としての落語 天才談志が教えてくれた人生の闘い方』(方丈社)、『天才論 立川談志の凄み』 (PHP新書) など多数。