2024年12月09日
20歳で単身ブラジルに渡り、帰国後、24歳の時に徒手空拳で「ドトールコーヒー」を創業。同社を一代で東証一部上場の大企業へと発展させた鳥羽博道さん。無一文の状態からいかにして経営を軌道に乗せていったのでしょうか。これまでの足跡と共に創業に込めた想いを語っていただきました。対談のお相手は、業界屈指の規模を誇る靴下屋「タビオ」創業者の越智直正さんです。
かくてドトールコーヒーは生まれた
〈越智〉
鳥羽さんはどういう経緯で起業したんですか?
〈鳥羽〉
これまた全く欲がなくてね、お金儲けがしたかったわけでも、社長になりたかったわけでもありません。、23歳でブラジルから日本に帰ってきて、もとのコーヒー卸会社で働いていたんですね。その社長がある時、重要な得意先を他社に取られてしまった社員を往復ビンタでぶん殴ったんですよ。それを見た瞬間、「辞めた」って。
これまでいろんな会社に勤めてきたけど、なかなか労使相協調する会社はない。であるなら、自分がつくる以外にない。そう思って「厳しさの中に和気藹々」という言葉をつくったんですね。これが創業の理念なんですよ。
〈越智〉
ええ言葉やな。
〈鳥羽〉
真剣に働くことでお互いがお互いを認め合い、尊重し合う会社をつくるんだっていうのが僕の考え方でした。
ただ、帰国した時に貯金は全部親父に上げちゃったので、お金は1銭もないんですよ。友達に30万円を借りて、8畳1間の場所で、2人の仲間とコーヒー豆の輸入・卸の会社を創業しました。
理想はいいですけど、まず技術がないので、品質がよくないわけですよ。そうすると、明日潰れてもおかしくない会社から買ってくれる人はいないってことに気がついたんですね。商品が売れないことの苦しさっていうのは骨の髄まで沁みました。
幸いにして僕の姿を見て買ってくれたのが千葉県の人で、そこからだんだん関東の地方都市に広がっていったんです。
あの頃は朝一番に車で横浜に配達して、次に千葉まで行って、それから群馬と、1日に3県回るなんてこともありました。いま考えてみれば、売り上げよりガソリン代のほうが高くて全然儲けにならない時もあったと思いますが、とにかく買ってもらったことが嬉しくて、収支計算しないで配達していましたね。
飛躍の原点となった「カフェ コロラド」誕生秘話
〈鳥羽〉
そういう状況から脱していったのは、やっぱり「カフェ コロラド」を出店してからです。
〈越智〉
それはいつ頃?
〈鳥羽〉
創業から10年経った昭和47年、東京の三軒茶屋に12坪の店をオープンしました。
製造卸のままだったら二進も三進も行かなかったでしょう。平均で月に5,000円買ってくれれば御の字でしたから。それがコロラドをつくって、立地選定から店舗設計、社員教育、メニュー開発まで全部考え、フランチャイズ展開に切り替えたところ、1店舗当たり月に30万円~50万円の売り上げが出るようになりました。
〈越智〉
卸時代の60倍~100倍。
〈鳥羽〉
幸いにして脱サラブームと相俟って、10年間で270店舗になったんです。これは決して先見性があったわけではなく、時代に沿ったことを運よくやれたっていうことですね。
〈越智〉
ショップ展開の発想はどこから来たんですか?
〈鳥羽〉
実は、ある女性がご主人を亡くして保険金を得たんですね。で、ある経営コンサルタントに相談して、赤坂で喫茶店を始めたんですが、失敗してノイローゼになってしまった。でも、そのコンサルタントは手を差し伸べなかった。それを知った時、この人は生き血を吸う吸血鬼だと思ったんですよ。
人を不幸にするようなことは絶対許されない。人を不幸にしないために自分が手本になる店をつくろう。そう思って始めたのがコロラドだったんですね。ですから、これも欲から出発したことではないんです。結果的に当たっただけ。
それと、どうしてコロラドって名前にしたかというと、これには理由がありましてね。
ブラジルに移民として渡った人たちが大変な苦労をしたんです。電気もない、水道もないところへ行って、荒野を切り開き、コーヒー農園をつくった。汚い話だけれども、手の皮が剝けると薬がないから自分の小便を消毒に使って働いてきたんですね。
その中で3人の日本人が、自分たちが大変な苦労をしてつくったコーヒーを祖国に送りたい、ぜひ日本人に飲んでもらいたいということで、コロラド輸出入会社をつくったんです。
この話を聞いた時、僕も実際にブラジルに行ってますから、その人たちの苦労や思いが手に取るように分かったんですよ。だから、彼らの遺志を継いでコロラドという名前にしたんですね。
〈越智〉
ああ、そうですか。えらい感動的な話ですわ。
(本記事は月刊『致知』2018年3月号特集「天 我が材を生ずる 必ず用あり」より一部抜粋・編集したものです)
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共に昭和12年生まれの87歳、徒手空拳から事業を興し、一代で日本を代表する企業へと導いてきた二人の立志伝中の人物がいる。ファンケル名誉相談役の池森賢二氏とドトールコーヒー名誉会長の鳥羽博道氏だ。30年以上にわたり親交を深めてきた道友が初めて語り合う人間学談義に、人生と経営を発展させる要諦を学ぶ。
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私と同じように、45年という永い時間の中でどれだけ多くの方々がこの本に触れ、多大な影響を受けてこられ、正しい人生航路を見出す力となったことでしょう。
そのことを考える時、大切な人生の羅針盤として『致知』が50年、60年、100年と人々の足元を照らし続け、発展されることを心から願います。
◇鳥羽博道(とりば・ひろみち)
昭和12年埼玉県生まれ。29年深谷商業高等学校中退。東京の飲食店勤務、喫茶店店長を経験し、33年ブラジルへ単身渡航。コーヒー農園で3年間働いた後、帰国。37年ドトールコーヒー設立。平成17年会長に就任。18年より現職。著書に『ドトールコーヒー「勝つか死ぬか」の創業記』(日経ビジネス人文庫)など。
◇越智直正(おち・なおまさ)
昭和14年愛媛県生まれ。中学卒業とともに大阪の靴下問屋に丁稚奉公。43年独立、靴下卸売会社ダン(現・タビオ)を創業。丁稚時代から読み始めた中国古典の教えをもとに、モラルある商売の道を追求。靴下業界屈指の企業を築く。著書に『男児志を立つ』『仕事に生かす「孫子」』(ともに致知出版社)などがある。令和4年1月逝去。
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