「まるで地獄です」——100歳の『致知』愛読者が語る壮絶な被爆体験

長崎県在住の吉村光子さんは御年100歳でありながら、『致知』を心の師と仰ぎ、長年ご愛読くださっています。いまも老眼鏡や補聴器を使わず、非常に若々しい吉村さんですが、22歳の時には長崎の地で被爆を経験されました。「まるで地獄だった」と語る、その想像を絶する被爆体験について、詳細にお話しいただきました。吉村さんの体験談は、「語り継ぐべき戦争の記憶」そのものです。

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22歳で被爆地獄のような極限状態

〈吉村〉
私が働いていた大橋工場は爆心地から北に1.3キロの場所に位置していました。8月9日の11時2分、一瞬ピカッと光って、「あら、いまの光なんね?」と言って机の下に潜るだけの余裕はあったんですね。その直後にゴーという音と共に爆風が襲い、窓ガラスが粉々になって顔や腕に無数の破片が突き刺さり、周囲に火の手が上がって慌てて逃げた。

すぐ裏に川が流れていて、たくさんの人が「水だ、水だ」と言って走ってくるんですよ。頭から血を吹き出している人、肉がべらっと剥き出しになっている人、片足がちぎれてもう片方の足でぴょんぴょん跳ねてくる人……。川に倒れ込んで上に重なるものだから、下の者はどんどん死んでしまう。みるみる川の水が真っ赤になった。それはもう凄まじい早さでしたよ。

——想像を絶します……。

〈吉村〉
どこもかしこも火の海で、防空壕の中は怪我人がいっぱいで泣き喚いている。だから、あっちこっちをさまよい歩き続けるしかありませんでした。B29が来ると陰や溝に隠れながら。

そこで兵器工場の守衛さんとばったり遭遇して、その方も身体中にガラスの破片が刺さったままでしたけど、行動を共にしました。途中で女の子が2人で泣きよったから、「あんたたちも一緒においで」と言って、山の中を4人で進んでいきました。

農家の麦藁の屋根が燃えて、山羊や鶏が焦げて死んでいる。トマトやキュウリは放射線を浴びて食べられない。

1日かけて山の向こう側まで行ったところで、守衛さんは力尽き身動きできなくなりました。2人組の女の子は別の場所へ行くということで別れ、1人になった私は鉄道線路によじ登り、ひたすら町に向かって歩いていったんです。結局、三日三晩水を1滴も飲まなかったです。

——3日間、飲まず食わずで。

〈吉村〉
道端に男の子がしゃがんでいて、「誰か僕を家に連れて行って」って言うんですよ。「僕の家はどこね?」と聞いても「目が見えない、目が見えない」って。ああ、可哀想に。

何とかしてあげたいけど、体力も限界で、どうにもできん。「必ず助けに来る人がおるからね。どうか頑張って元気で生きてください」って言うより他に仕方ないんですよね。

最後は這うようにしてやっと勤務先の工場に戻ってきたら、中から声がした。労務課長の島田さんが血だらけになりながら仕事をしていたんです。「おお、よう生きとってくれた、よう生きとってくれた」って抱き締めてくれてね……。思わず涙がどーっと溢れて、何も言えませんでした。

それからは家族の安否を尋ねてくる近郷の方たちの受付を任されました。夜は怪我人の看病で寝る間もなく、「おしっこ」と泣き叫ぶ子供がいれば、洗面器を持っていってね。手も足もない人や傷口に大きな蛆虫が這い回っている人たちが「殺してくれ、殺してくれ」と呟いている。まるで地獄です。

毎日のように亡くなっていく人をまとめて広場で火葬し、骨を拾ってバケツに積んでいく。もう涙も出ないほどの極限状態でした。

——何が支えになりましたか?

〈吉村〉
やっぱり一番に考えるのは両親のことですね。両親が見守ってくれているんだと。他には考える余地がなく、自分だけはしっかりしなきゃいけないという気持ちで、必死にただひたすら一所懸命頑張りました。


(本記事は月刊『致知』20238月号特集「悲愁を越えて」より一部抜粋・編集したものです)

◎『致知』2023年8月号にて、吉村さんは
・自分のことは自分でやる
・日本の行く末を考えると夜も寝られない
・十代の若さで両親と死別
・二十二歳で被爆 地獄のような極限状態
・人生の誓い五か条
 ……など、歩んできた100年における壮絶な人生体験、原爆の悲惨さ、そしてその中から得た人生信条、悲愁を越えていく心の持ち方を語っていただいています。詳細はこちら

〈致知電子版 〉でも全文お読みいただけます。

◇吉村光子(よしむら・みつこ)
大正12年東京生まれ。生後間もなく関東大震災で被災。女学校を卒業後、父親の転勤により上海へ移住するも、16歳で父親と、17歳で母親と死別する。その後、長崎の叔母の家に預けられる。昭和20年8月9日、三菱兵器製作所に勤務中に被爆し、九死に一生を得る。22年に見合い結婚、仕事をしながら家計を支える。2回の流産と1回の死産を経験。平成19年には60年連れ添った夫が病死。以後、現在まで1人暮らしの生活を続けている。

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