2024年08月18日
戦国三英傑の一人として、その名を知らない人はいない豊臣秀吉。主君信長の草履を温め、異例の立身出世への道を開いたことは有名ですが、同時に優れた〝開発者〟の一面も持ち合わせていたようです。そのすごさは、大坂の陣で失われてしまった大坂城に見て取れるといいます。戦国時代史研究の第一人者・小和田哲男(静岡大学名誉教授)さんのお話です。
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土木工学の専門家が驚いた〝開発力〟
〈小和田〉
織田信長亡き後の天正11(1583)年、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を破った豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)は同年9月から石山本願寺跡に大坂城の普請に着工。この時、秀吉は軍師・黒田官兵衛に、城造りで改善すべき五項目を認めたメモを手渡しています。
現場で何かうまくいかないことがあれば、それを検証しては次の機会に活かしてきた秀吉ですが、この時手渡された五項目のうち、私が最も注目したのは、
「片に寄りて通るべきこと」
という項目でした。なぜかというと、これが日本の歴史上、片側通行を指示した最初の文章ではないかと睨んでいるからです。
一刻を争う築城において、石垣を積むために大きな石を運ぶ人足と、次の石を取りに行く人足とがひっきりなしに交錯することで生じる多大な時間的ロスに秀吉は気づいていたのです。
また、メモには左側通行か右側通行かについては示されていませんが、おそらく秀吉からは左側通行の指示が出ていたものと思われます。
現場には大勢の人足だけでなく、それを監督する武士もいました。そして彼等の多くは現代人と同じように右利きが多くいたことでしょう。つまり左側通行を採用したのは、左に差した刀がぶつかり合わないようにという配慮があったからに他なりません。
また、後に秀吉は淀川の東側に文禄堤という堤防を造っています。堤防といえば川底の土を浚って両側に盛り上げるというのが当時の手法でしたが、秀吉は違いました。
何が違うかというと、盛り上げられた堤防の片側上部を平らにし、そこに道を造らせたのです。全長27キロにも及ぶこの一本道、実は京都と大坂を繋ぐ最短路として当時の人々に大いに利用されたといいます。
ある土木工学の専門家がこれを評して、現在でいう総合開発のはしりではないかとの見方をしていますが、先の片側通行といい、秀吉の豊かな発想力は、合戦以外の場面でも存分に発揮されていたことがお分かりいただけるのではないでしょうか。
(本記事は月刊『致知』2014年12月号 特集「発想力」より一部を抜粋・編集したものです)
「古典と歴史と人物の研究、
これを徹底しなければ、
人間の見識というものは磨かれない」
――東洋思想哲学の泰斗・安岡正篤師はそう語っています。
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◇小和田哲男(おわだ・てつお)
昭和19年静岡県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専攻は日本中世史。静岡大学教授を経て、平成21年から同大学名誉教授に。著書に『名軍師ありて、名将あり』(NHK出版)『黒田官兵衛』(宮帯出版社)『戦国大名と読書』(柏書房)など多数。