2021年09月22日
2021年に生誕500年を迎えた戦国武将・武田信玄。戦国最強の騎馬軍団を率い、“甲斐の虎”と恐れられた武田信玄ですが、その人間力が如実に伝わってくるエピソードを、上智大学名誉教授の渡部昇一さん(故人)に紐解いていただきました。武田信玄のエピソードから、危機の時代のリーダーに求められる資質もまた教えられます。
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退く勇気も時に必要
〈渡部〉
永禄12年秋9月、甲府の館では北条家の小田原城を攻める軍評定が開かれていた。信玄は当年四十九歳、百戦錬磨の功を積んで思慮も最も円熟していた。信玄の考えでは、南に下って駿河に出ようとすると小田原の北条氏政がこれを妨げるから、逆に駿河に出ないで、啄木(たくぼく)の戦法によって小田原城を叩こうという計画だった。
家来たちはみんな一生懸命に、進軍の道筋と日程を論じている。信玄は一人黙然として考えていた。家来の一人が「殿様がいかがお考えか、お伺い申し上げます」
というと、信玄は
「お前たちがいいように計らえばよい」
と答えた。
そういう信玄が手元に広げている地図を見ると、赤い線があちこちに引かれている。それを見て家来は訪ねた。
「その道から討って出る思し召しですか」
すると信玄は、頭を振ってこう答えた。
「いや、これは引き揚げる道だ」
それを聞いて大将たちは仰天した。勇ましい進軍の門出に、退却の道を考えるのはなんたる不吉なことであろうか。我々は勝って北条氏をほうむる覚悟である。破れて引き揚げようとは思っていない。そこで、大将たちは口々にいった。
「それはご無用のことです。凱旋(がいせん)するときはどの道でも自由に通行できますから、今そのようなご検討をする必要はありません」
信玄は笑った。
「そうかも知れぬ。そうでないかも知れぬ。お前たちは進むことを考える。それゆえに私は退くことを考えるのだ。進むことは容易だが、退くのは難しいものだぞ。人間というものは、どのように生きようかということよりも、どのように死のうかということを考えなければならぬ。どのように進もうかということよりも、どのように退こうかということを考えるほうが大事なのだ」
そのようなわけで、信玄は小田原城を囲んだが、もう一揉みと逸る家来たちを抑えて、さっさと予定の退路を引き揚げた。すると、物を知らない北条方はすわとばかりに追撃してきて、三増峠の合戦でこてんぱんに信玄に打ち破られた。信玄は崩れ立つ敵勢を尻目に見て、山を下って悠々と甲府に引き揚げたのである。
信玄のこの言葉は事業などにも当てはまるだろう。事業も拡大するのは易しいが、引き揚げるのは難しいものである。
私は邱永漢という人の本が好きでよく読むのだが、彼の『私は77歳で死にたい―逆算の人生設計』という本から非常にいいヒントをもらった。その邱永漢さんは70近くになってから非常に苦労をされた。
それでもなんとか持ちこたえたわけだが、「七十なんか簡単に越えると思っていたら死ぬような思いだった」ということを書いておられる。これは退くことを十分に考えていなかったからなのではないか、と思うのである。そういうケースが実業家の場合には実に多いようだ。
また軍隊もそうである。明治と昭和の軍人の大きな違いは、明治の人は、戦争を始める前からいつ止めるかを考えていた、という点である。だから日清戦争でも日露戦争でも、2年と続いた戦争はない。ところが昭和に入ると、とにかく逸ってしまって、いつ止めるということを誰も考えていない。支那事変でも英米との大東亜戦争でも、戦争を始める前に止めることを考えておくという発想がなかったから延々と続き、結局は物量の差によって敗戦に追い込まれてしまったのである。
もしあのとき武田信玄のようなリーダーがいたら、結果は全く違っていたに違いない。
(本記事は渡部昇一著『人生を創る言葉』(致知出版社刊)より一部抜粋したものです) ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。
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