2022年04月04日
2021年、新型コロナウイルスが猛威を振るう中、日本中を沸かせた東京パラリンピック。ゴールボール女子日本代表を牽引し、銅メダルを掴み取った浦田理恵さんは、20歳の時に突如として目が不自由になり、悲しみの底から光を見出し歩んでこられました。本日は月刊『致知』にて、2012年のロンドン五輪で金メダルを共に勝ち取ったキャプテン(当時)の小宮正江さんとの対談をお届けします。
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笑顔に開く天の花
――〔ロンドン五輪を振り返って〕――
〈浦田〉
私も今回の大会では随分成長させてもらえたと感じています。
練習では技術や体力を鍛えるのはもちろんですが、最後の局面を左右するのはメンタルの部分なので、北京大会後からメンタルトレーナーの先生にアドバイスをしてもらうようにしてきました。はじめに先生から、試合中にどんな気持ちでいるかと聞かれたので「失点しちゃいけないと思っています」と言うと
「言い方を変えたらもっとよくなるよ。〝しちゃいけない〟と否定語を使わず、〝パーフェクトに守る〟と、できるだけプラスの言葉を使って脳をコントロールしていくのが一つ。もう一つは、自分でルーティンをつくり上げていくといい」
って。試合のある日も合宿の日も、飲み会の日であろうと関係なく、これだけは毎日絶対にやるというものを継続できれば大きな自信に繋がるよと。だから私はたった3分間ですが、365日どんなことがあっても絶対に欠かさず決めたトレーニングをやってきました。
〈小宮〉
一日も休まずやった、ということが自信になるんですよね。
〈浦田〉
はい。「私は継続できる女だ」と自分に暗示をかけられるようになって(笑)。そうやってプラスの言葉と笑顔を意識的に行うことで、最初は細ーい糸くらいの線だったんですが、自分の中で何かが一本スーッと通ってきたという感覚がありました。
それから、実は致知出版社の皆様にお礼を言いたいことがあったんです。私は森信三先生の「笑顔に開く天の花」という言葉が好きで、その言葉をある方が扇子に書き入れてくださり、試合会場でもお守りのように持っていました。すると金メダルが決まって数時間後に、携帯メルマガ(致知一日一言)が届いて「今日の言葉」が「笑顔に開く天の花」だったんです。
〈小宮〉
あれはびっくりでしたね。
〈浦田〉
天の花、開きましたぁ、ありがとうございますって(笑)。ロンドンにいても毎日メルマガでいろんな言葉が届くんですが、不思議とその日の心境に合ったような言葉がくるんですよね。
〈小宮〉
これ、私たちのことを思って送ってくれてるわけじゃないよね? なんて話しながら(笑)。
〈浦田〉
あの時、言葉の力って凄く大きいなって改めて思いました。
それで今回金メダルを持って帰ってきて、いろんな方にご報告などさせていただくと、物凄く喜んでいただけるんです。「わぁ! よく頑張ったね」とか「感動したよ」というその言葉が、メダルを取ったこと以上に嬉しくて。そうやって結果を一緒に喜び合えることが、何よりも自分たちが欲しかったものなんだなと感じました。
闇の中にあった心を救った言葉
――〔半生を振り返られて〕――
〈浦田〉
私の場合は徐々に徐々に、じゃなくて、20歳の頃にガクンと来たんですね。左の目が急に見えなくなって、すぐに右の目、とスピードが早かった。
小学校の先生になるための専門学校に通っていた時で、卒業を間近に控えた三か月前の出来事でした。これまでできていたことができなくなるのが本当に怖かったです。
〈小宮〉
浦田さんも、しばらく誰にも言えなかったんですよね。
〈浦田〉
はい。1年半くらいは一人暮らしのアパートから出られず、両親にも友達にも打ち明けられないままでした。目が見えなくなってきたことが、最初は受け入れられませんでした。もう本当に凄くきつくて、お先真っ暗で、見えないのなら何もできないし、できないんだったら別に自分がいる意味なんてないと考えたりもしました。
22歳のお正月の頃、もう自分ではどうにも抱えきれなくなって、このまま死んでしまうぐらいなら親に言おうと思ったんです。その決心がようやくできて、福岡から久しぶりに熊本へ帰りました。
〈小宮〉
よく1年半も一人で耐えたと思います。
〈浦田〉
熊本へは電車で帰ったのですが、全く見えないわけではないので、こう行けばそこに改札があったなといった記憶も辿りながら、駅のホームに降りて、改札口のほうへ向かいました。
すると、すでに母が迎えに来てくれていたようで、「はよこっちおいで。何、てれてれ歩きよると?」と声がしました。あぁ、お母さんや、と思って改札のほうへ向かったんですが、母の声はするんですけど、顔が全然見えなくって……。
その時に、あぁ、私、親の顔を見たのはいつやったかな、親の顔も見えなくなったんだということで、自分の目がもう見えなくなったことを凄く痛感させられた。改札のほうへも、さっさとは歩けないのでちょっとずつ歩いたのですが、母は私がふざけていると思ったそうです。
改札をやっと通り抜けて母の元へ行き、「私……、お母さんの顔も見えんくなったんよね……」と言ったら、母は「ほーら、また冗談言って。これ何本?」って指を出されたんですが、その数も全然分からなくて、母の手を触って確認しようとした。
その瞬間、母はもう本当に、改札の真ん前だったんですけど、ワーッとメチャクチャに泣き崩れて……。
〈小宮〉
……。
〈浦田〉
それを見てる私も、自分は何をやってるんだろう、とやるせない気持ちになったんですが、でもこれまでずっと自分一人で抱えてきたものを伝えられたと、肩の荷がちょっと下りた気持ちでした。
それと、親がしばらくして「何か自分ができることを探さんとね」と声を掛けてくれた。その時に、あぁ自分がたとえどんな状態になっても親は絶対見捨てないでいてくれるなと実感できたんです。
それまでは家族の存在も、まるで空気のように当たり前に感じていたのですが、いてくれることのありがたさというのが初めて身に染みて感じられました。そしてこれだけ応援してくれたり、励まして支えてくれる人がいるんだから、自分も何かをやらないと、とそれまで後ろ向きだった気持ちが、少しずつプラスに変化していきました。
(中略)
〈小宮〉
私もそうだったけど、いろんな人との出会いによって心境が変化していったんですね。
〈浦田〉
はい。工夫と訓練でやれることって限りなくあることを教えてもらって、それが少しずつ自信へと変わっていきました。就職も、学校の先生になることは諦めましたが、自分の手に職をつけようということでマッサージ師の免許を取りに行き、その学校で小宮さんと出会い、ゴールボールも始めることができた。
ゴールボールはアイシェード(目隠し)をすると全く見えなくなるので、逆に「見えない」ということを言い訳にして逃げられない。もう自分がやるかやらないかの世界。なので、日常生活でも、見えないからしょうがないと諦めたり逃げたりしていたことがたくさんあったんですが、自分自身とも正面から向き合えるようになりました。
〈小宮〉
それにしても私はまさか浦田さんがここまでの選手になるとは思わなかった(笑)。これまで一切スポーツをやっていなかったというのに、本当に成長が早くって。
〈浦田〉
いや、もう体の使い方も何も分からないので、小宮さんの体を触らせてもらいながら、どういう姿勢で投げたり守ったりするのかを教わったり、とにかく真似するところからがスタートでした。
でも最近よく思うんですね。私の目がいまも見えていたら、自分は随分、傲慢な人間になってるだろうなって。見えなくなったからこそ、周りの人から差し伸べていただく手一つが、凄くありがたいことに気づけましたし。そう考えると、見えなくなったことにも必ず意味があったな、と思うんです。
(本記事は月刊『致知』2012年12月号 特集「大人の幸福論」より一部を抜粋・編集したものです)
◉『致知』2022年5月号に浦田理恵さんが登場!! 東京2020パラリンピックを共に闘い、日本中を熱くした道下美里さん(東京パラリンピック 女子マラソン金メダリスト)とご対談いただきました。詳しくは下の記事バナーから!
【登場者紹介】
◇小宮正江(こみや・まさえ)
昭和50年福岡県生まれ。九州産業大学商学部卒業。平成13年に、現日本代表コーチの江黒直樹氏の勧めによりゴールボールを始め、同年に日本選手権優勝。ゴールボール競技の日本代表チーム主将として、平成24年にロンドンパラリンピックに出場し優勝。㈱アソウ・ヒューマニーセンターよりシーズアスリートへ出向。ヘルスキーパーとして勤務。
◇浦田理恵(うらた・りえ)
昭和52年熊本県生まれ。20歳を過ぎて急激に視力が低下し、「網膜色素変性症」と診断される。鍼灸マッサージの免許取得のために視力センターに入所した際、卒業生の小宮選手が活躍する姿に憧れゴールボールを始める。21年総合メディカル㈱に就職し、シーズアスリートへ出向。ヘルスキーパーとして勤務。平成24年、ゴールボール競技の日本代表副主将としてロンドンパラリンピックに出場し優勝。