車いすバスケ・京谷和幸ヘッドコーチを支えた妻の愛

交通事故での脊髄損傷により、Jリーガーとしての選手生命を絶たれるも、車いすバスケットボールで新たな夢を見出し、4大会連続でパラリンピックへ出場された京谷和幸さん(写真左)。今回の東京パラリンピックでは、同競技の男子日本代表ヘッドコーチとしてチームを導いておられます。京谷さんはいかにして転身を果たし、活躍し続けているのか。車いすファッションブランドのピロレーシング代表・長屋宏和さん(写真右)とお語り合いいただきました。

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突如として閉ざされたサッカーへの道

〈長屋〉
京谷さんは車椅子バスケットをされる前は、プロのサッカー選手として活躍されていたんですよね。

〈京谷〉
はい。私が生まれ育った北海道室蘭市に室蘭大谷高校というサッカー強豪校がありまして、私が小学一年生の時に全国大会で準優勝したんです。その試合をテレビで観たことがサッカーを始める大きなきっかけになりました。

それで小学2年でサッカーを始めたのですが、6年の時にスペインでワールドカップが開催されましてね。その時にドイツ(旧西ドイツ)代表として出場していたリトバルスキーのプレーを見て、自分もそういう舞台でやってみたいなと、プロのサッカー選手になる夢を持つようになったんです。とはいえ、当時はまだJリーグが発足していなくて、海外に行かなければプロにはなれない時代でした。そこで海外に行くためには多くの人に注目されないとだめだと思い始めまして、自分の中で室蘭大谷への進学が避けては通れないものになっていったんです。

〈長屋〉
その頃から、プロへの明確な道筋を描いていたんですね。

〈京谷〉
ええ。室蘭大谷には特待生として入ることができ、1年生から10番をつけ、レギュラーとしてプレーしました。その翌年には日本ユースとバルセロナオリンピックの代表候補に選ばれていくのですが、ちょうどその頃から、日本でもサッカーのプロ化に向けた動きが本格化しまして、自分の夢が現実味を帯びていきました。

その後、いろいろとスカウトがあったのですが、最終的にサッカーの強豪・古河電工への入社を決め、Jリーグが開幕する前の1991年にプロ契約を結びました。

〈長屋〉
まさにサッカー一筋の人生を歩んでこられた。

〈京谷〉
そうなんですが、そこからは怪我ばっかりで、なかなか結果が出せなくなったんです。それにその頃、現在の妻と婚約をしましてね。これからの結婚生活のためにも早く試合に出たいというプレッシャーや焦りがありました。

そういう中で、1993年11月28日の事故の日を迎えました。実はその日は結婚式の衣装合わせの前夜だったんです。仲間の家に遊びに行った帰り、明け方の4時くらいでしたが、スピードも出していて、油断をしたんでしょうね。脇から車が出てきて、それをハンドルを切って避けたら、そのまま電柱に激突してしまった。

〈長屋〉
あぁ、衣装合わせの前夜に事故に遭われた……。

〈京谷〉
すぐに病院に運び込まれたものの外傷は全然なく、警察の方が来た時も立って会話したことは覚えているんです。ただ、そこからは記憶が断片的にしか残ってなくて、気づいた時にはもう集中治療室のベッドに寝ていました。

一人でできないことも、二人だったら

〈長屋〉目を覚ましたのは事故からどれくらい経ってからですか。

〈京谷〉
その日の朝7時くらいでしたから、事故から3時間後くらいでしょうか。目を覚ますと、身内の方の連絡先を教えてくださいと言われたので、北海道なのですぐには来れないからと、婚約者だった妻の連絡先を教え、妻が駆けつけてくる。そんな状況でしたね。

それで事故から数日後、まだ私が車椅子生活になることなど何も知らされていない時に、面会にやって来た妻が突然「入籍しよう」って言ってきたんですよ。遅かれ早かれ入籍するつもりではいたんですが、なぜこの状況で言うのかなっていう疑問はありました。

ただ、その考えを伝えると、妻はいままで見せたこともない必死の形相をして、「いまじゃなきゃだめなの!」って言うんです。彼女が望んでいるならいいかという感じで、私は寝たまま婚姻届にサインをして、事故から11日目に妻と入籍したんですね。

〈長屋〉
あぁ、事故後すぐに入籍されたと。ご自身の足のことはいつ知ったのですか。

〈京谷〉
入籍後、しばらく経っても足が動かなくて、私は日に日に不安と焦りでいっぱいになっていきました。そういう中で、ある日、妻がベッド脇のサイドボードの上に日記を置き忘れていることに気づいたんです。

なんとなくその日記をめくってみると、「脊髄(せきずい)神経がだめになっている」「2週間経っても感覚が戻らないと車椅子の生活になると先生に言われた」などと絶望的なことばかり書かれてあって、私はこの日記で初めて自分の足の事実を知ったんですね。

先生から正式にそのことを告げられたのは、それから数日後です。

〈長屋〉
先生の宣告をどのように受け止められましたか。

〈京谷〉
宣告を受けた時、私は「はい、分かりました」とだけ答えました。それまで他人に自分の弱さを見られるのを嫌い、いつも意地と見栄を張って生きてきましたので、宣告によってうろたえた姿を見られたくなかったんです。

それでも宣告された日の夜、最後の最後で、いろんなことがフラッシュバックしてきましてね。深夜の病室で枕に顔を押し当て声を殺して泣くわけですよ。サッカーが人生のすべてでしたから、これからの人生どうしようか、どうやって生きていこうかって……。

だけど、その時ハッと気づいたんです。自分は一人じゃないと。

〈長屋〉
入籍した奥様がいる。

〈京谷〉
ええ。それまでの私は、サッカー選手になれたのも自分の才能だと思っていましたし、どちらかといえば自分のためだけに生きてきた人間だったのですが、その時に初めて、車椅子になることを知りながら入籍を決断してくれた妻のためにも、この状況を変えていかなきゃと思えたんですね。たぶん、妻がいなければそういう思いにならなかったと思います。

別にサッカーを諦める、車椅子になることを受け入れたわけではないですよ。でも、これから二人でやっていくためには、自分がいまやるべきことは何だろうかと考えた時に、それは妻のためにリハビリを頑張って一日でも早く退院することだと思ったんです。〝妻のために〟。ただそれだけが当時の私の生きる力でしたね。

〈長屋〉
やっぱり京谷さんにとって、逆境を乗り越える上で一番大きかったのは奥様の存在ですか。

〈京谷〉
そうですね。妻の存在は一番だったと思いますし、実は先生に宣告された日に、「一人でできないことも二人だったら乗り越えられる。これからは一人ではないんだから、二人で頑張っていこう」と言ってくれたんですね。

その時は、「おまえに何が分かるんだ! ふざけるな!」と思っていましたが、結果的には妻の言葉があったからこそ「自分は一人ではない」と気づけましたし、その後も何度も救われてきました。

例えば、いまチームスポーツを指導していく上でも、選手たちに「一人でできるわけがないだろう」とか、「それぞれの力があっておまえが生かされているんだ」とか、そういった言葉を伝えられているのも妻のおかげですよ。「守るものができると強くなれる」という思いも、そういうところから来ているんでしょうね。

〈長屋〉
奥様の言葉を励みにここまで歩んでこられたんですね。

〈京谷〉
ええ。それから妻と籍を入れて23年になりますが、「こんな自分を選んでくれた」という思いもあるんですよ。妻も相当な決断、覚悟だったと思います。

私の両親も「まだ若いし、障害を持ってしまう人と一緒になることはない。結婚の話はなかったことにしましょう」と、妻に伝えたみたいなんです。それでも妻は頑(がん)として首を縦に振らなかった。

だから「生涯を懸けて妻に恩返しをしなければいけない」「挑戦している姿を見せ続けなければいけないんだ」と。ただ、それが別に苦ではなくて、自分らしく生きることに繋がっているんです。


(本記事は月刊『致知』2017年3月号 特集「艱難(かんなん)汝(なんじ)を玉にす」を一部、抜粋・編集したものです)

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◇京谷和幸(きょうや・かずゆき)
昭和46年北海道生まれ。室蘭大谷高校2年の時、サッカー日本ユース代表とバルセロナオリンピックの代表候補に選出。その後、古河電工に入社し、平成3年Jリーグのジェフ市原とプロ契約を結ぶ。5年22歳の時に交通事故で脊椎を損傷し、車椅子生活となる。その後、車椅子バスケットチーム・千葉ホークスに入り、活躍。12年のシドニー、16年のアテネ、20年の北京、24年のロンドンと、四大会連続でパラリンピックに日本代表として出場。北京では日本選手団主将も務める。24年車椅子バスケット現役引退後は、指導者として道を歩む。東京パラリンピック車椅子バスケットボール男子日本代表ヘッドコーチ。著書に『車いすバスケで夢を駆けろ』(金の星社)『車椅子バスケのJリーガー』(主婦の友社)などがある。

◇長屋宏和(ながや・ひろかず)
昭和54年東京都生まれ。14歳からレースを始め、平成11年フランスの「ラ・フィリエールレーシングスクール」に一年留学。帰国後、F1に続くカテゴリーであるF3にステップアップ。14年三重県鈴鹿サーキットで行われたF1前座レース中に事故に遭い、脊椎損傷四肢麻痺の重度障碍者となる。リハビリの後、16年に絶対不可能といわれたカートレースに復帰し、完走。17年には車椅子利用者のためのファッションブランド「ピロレーシング」を立ち上げる。現在は主にピロレーシングの商品開発に取り組みながら、レーサーとして挑戦を続けている。著書に『それでも僕はあきらめない~元F3レーサー、車いすからの新たな挑戦』(大和出版)がある。

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