深い絆で結ばれた日本と台湾

戦前の台湾で、日本人として生まれ育った蔡 焜霖(さい・こんりん)さんが、令和3年春の叙勲で旭日双光章を受章されました。戦後、中国国民党に郷土を制圧され、数奇な運命を辿ってきた蔡さんは、台湾の歴史の生き証人です。そのお話に、日本と台湾を結ぶ深い絆の存在を知ります。

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台湾近代教育の始まり

このインタビューは、2016年に行ったものです〕

――日本が統治していた時代の台湾というのは、どのようなものだったのでしょうか。

〈蔡〉
そもそも台湾が植民地として日本の統治下に入ったのは、日清戦争の翌年にあたる1895年のことでした。

植民地というとあまり聞こえはよくありませんが、台湾にとって幸運だったのは、日本が明治維新を経て、欧米諸国に追いつき追い越そうと近代化に向かって突き進んでいたことですね。そのおかげで、植民地であっても、そのすぐ後について近代化の道を歩めたのだと思います。

それに植民統治が始まって、かなり早い段階から台湾全域で教育が始められましてね。それも貴族だとか身分の高い人だけが受けられる教育ではなく、誰もが受けることができる近代教育が始められた。特に台湾総督府初代学務部長の伊沢修二という人物は、当時アメリカで師範教育を受けさせるために日本から留学させた4人の一人ですから、そのような人物を派遣してくれたというのは、台湾にとってとんでもない幸せだったと思うんですよ。

――蔡さんご自身は、日本統治時代にどのような教育を受けられたのですか。

〈蔡〉
私の場合、戦争が終わった時に14歳だったので、小学校6年、中学校で3年、幼稚園を加えると10年間日本の教育を受けました。私が通っていた中学校の先生はほとんどが日本人で、とても憧れた先生もいれば、こいつは嫌いだなという先生も結構いました(笑)。ただ、総じて日本の先生は正直勤勉といった感じで、人格的に大変高潔な先生ばかりでしたね。

特に印象に残っているのは上原先生という、それこそ理想に燃える快男児で、その先生が教えてくれたドイツの詩人ツェーザル・フライシュレンの言葉「心に太陽を持て、くちびるに歌を持て」は、いまもまだ胸に残っています。

それから当時は修身という授業があって、そこではいろいろな教条を並べてあれこれ説明するのではなく、英雄伝や偉人伝に登場する人物の生き方を自分たちの鑑として学ぶことができました。

――特に影響を受けた歴史上の人物はおりましたか。

〈蔡〉
小学生の頃から傾倒していたのがスイスの教育者ペスタロッチでした。ですから、私はずっと教育者になりたいと思っていたんですよ。もちろん楠木正成や二宮金次郎は普遍的に皆が尊敬する人物でしたが、それ以外にも洋の東西を問わず偉人と呼ばれる人物について学びました。

それに伊沢修二は後に日本で音楽教育を全面的に推し進めた人物だったこともあって、台湾でも童謡や唱歌が随分歌われました。特に北原白秋や西条八十などが創った童謡の歌詞は、我われの人格形成に大きな影響を及ぼしましたね。

他にもアメリカやイギリス、ドイツの歌なんかもたくさん習いましたし、日米開戦後も卒業式の歌は『蛍の光』のままで、鬼畜英米の歌だからといって排除することもありませんでした。修身教育にしても音楽教育にしても、世界的に見ていいものはいいという形で紹介してくれたんですよ。

「広告の鬼」と「保険セールスの神様」

〔しかし1949年、中国国内での内戦に負けた国民党の軍隊と中華民国政府の役人が、蔣介石に率いられて台湾へ押し寄せてきます。それにより、蔡さんも捕らえられ、10年に及ぶ服役の末に帰還することができたのでした〕

――その後はどのような道を歩まれたのでしょうか。

〈蔡〉
やはり「前科」があったので、現実は厳しかったですね。どこに応募しても「前科」が引っかかって門前払い。ようやく決まった先が国華広告公司(現・電通国華)でした。

――特別な縁でもあったのですか。

〈蔡〉
それが創業者である許炳棠が文人肌の方で、面接の時に何か日本の詩の一節でも諳んじることができるかと聞かれたので、「嘆きたまいそはかなきはこの世の恋のさがなれば」で始まる西条八十の詩を披露したんですよ。そうしたら、許炳棠がお返しにと言って島崎藤村の「初恋」を口ずさまれた。これが決め手でした(笑)。

――では広告会社で社会人としての新たな第一歩を歩み始めたと。

〈蔡〉
ええ。ちなみにこの国華広告公司というのは、日本で「広告の鬼」と言われた電通の吉田秀雄にけしかけられた許炳棠が設立した会社なんですよ。

――どういうことでしょうか。

〈蔡〉
二人は電通が開いたアジア広告会議の場で知り合っていて、許炳棠を見込んだ吉田秀雄が、「広告は経済に貢献するものであり、将来は経済を牽引する産業になる」と力説し、彼を後押ししたのです。

その背景には吉田が幼くして台湾で父親を失っていたようで、それもあって台湾に人一倍思い入れが強かったようですね。ですから戦後台湾の広告業界は、吉田秀雄の無私の働きによって大きく発展していったんですよ。

――戦後においても、そのような形で日本と台湾との繋がりは続いていたのですね。

〈蔡〉
それだけではありません。私は縁あって、国泰生命保険に勤めていたことがあるのですが、業務提携していた明治生命から原一平が台湾に招かれているんですよ。

彼は当時日本で「保険セールスの神様」と称されるほどの人物で、台湾各地で開かれた講演会はどこも大盛況。私は通訳としてずっと行動をともにしていたのですが、彼もまた台湾の生命保険業界全体の発展を願って、報酬を受け取ることなく人材育成に寄与してくださったんです。

私は自分が携わった業界のことしか知りませんが、おそらく他の業界においてもそういうことはあったのではないでしょうか。


(本記事は月刊『致知』2016年9月号 特集「恩を知り 恩に報いる」より一部を抜粋・編集したものです)

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◇蔡 焜霖(さい・こんりん)
昭和5(1930)年日本統治下の台湾・台中州生まれ。18(1943)年台中第一中学校に入学。後に学徒兵として召集、台中の陸軍航空隊飛行場駐屯時に終戦を迎える。1950年白色テロ影響で懲役10年の刑に処せられ、火焼島(現・緑島)で服役。1963年国華広告公司(現・電通国華)に入社。1966年児童雑誌『王子』を創刊。国泰生命保険に勤務後、再び国華広告公司に入社。副社長、社長、副会長を歴任後、1999年に退任。現在は国家人権博物館の創設に尽力するとともに、白色テロ事件の真相究明に挑み続ける。

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