天下統一を果たした「隠忍自重」の心。260余年の太平を築いた徳川家康に学ぶ人間学

江戸幕府を開き、約260年間続く太平の世の礎を築いた徳川家康。しかし、長きにわたる人質生活を余儀なくされたその幼年時代は苦難に満ちていました。小大名の子として生まれた家康は、いかにして乱世のトップに立ち、天下を統べるに至ったのか――。家康の遺した名言と共に、その偉功と人生を学びます。

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江戸幕府を開いた小大名の子

徳川家康は、三河岡崎の小大名であった松平広忠の長男として生まれ、幼名を竹千代といいました。三河の岡崎は現在の愛知県東部に当たります。22歳のとき家康と名乗り、25歳のとき勅許(天皇の許し)を得て松平から徳川へ改姓しました。

戦国乱世の中、松平氏は隣国駿河(現在の静岡県)の今川氏の影響下にありました。しかし、永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が尾張(愛知県西部)の織田信長に敗れると、家康は今川氏と決別し、織田信長と結んで三河を平定します。以後、信長と協力関係を維持しました。本能寺の変(1582年)で信長が斃(たお)れた後、羽柴(豊臣)秀吉と戦いましたが、決着の着かぬまま和睦しました。天正18年(1590)、秀吉が関東の北条氏を滅ぼすと、家康は北条氏の旧領200万石余を与えられ、関東に移らされました。江戸幕府の第一歩がこのとき印されたと見ることができます。

秀吉の死後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで石田三成を破って覇権を握り、慶長8年、征夷大将軍に任ぜられて江戸幕府を開きました。その2年後には将軍職を三男の秀忠に譲り、駿府(静岡市)に隠居しました。そして元和元年(1615)、豊臣氏を滅ぼして名実とも天下を統一しました。翌年、「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」、「寺院法度」などを制定して、太政大臣に叙任されて、亡くなりました。75歳でした。

朝廷から「東照大権現」の神号と正一位の追贈も受けています。遺骸は遺言どおり、はじめ駿府郊外の久能山に埋葬され、翌年下野国(栃木県)の日光に改葬されました。三代将軍家光のとき、荘厳な社殿が造営されています。それが日光東照宮です。

好学の武将

関ヶ原の戦いのあった慶長5年には、豊後(大分県)の臼杵湾にオランダ商船リーフデ号が漂着しています。家康は航海長のイギリス人ウィリアム・アダムズや航海士のオランダ人ヤン・ヨーステンに海外情勢を尋ねています。家康は貿易には積極的で、京都の商人田中勝介がノビスパン(メキシコ)に渡航することも許しています。いわゆる「鎖国の体制」が固まるのは、三代将軍家光の時代で、家康が亡くなって20年後のことです。

アダムズが故国に送った通信には、家康に「幾何学や数学を教えた」と次のようなことが記されています。

 「……皇帝(家康)は、たびたび私を招いて、小船を一隻建造することをしきりに望まれた。私は船大工ではないといちおうお断り申し上げたが、皇帝は上手に造れなくても差し支えないとまで言われたので、私は約80トンの船を建造した。この船はすっかり英国風にこしらえたが、皇帝は乗船し、検分してみてすっかり気に入った。こうして私は皇帝にいっそう可愛がられたから、しばしば御前に伺候(お側で仕えること)して、ときどき下賜品をもいただき、ついには生活の資として日々米2斤(約1200グラム)、年々70カード(銀700匁(もんめ)=約2.6キログラム)あまりの俸禄(給与)をたまわった。私は皇帝に幾何学の数項と、数学やその他のことを教えたりして、すっかり皇帝に気に入られたので、私の進言したことで反対されたことはなかった」

さらにアダムズは「哀れな私の妻子に再会するために」帰国を懇願したが、「お許しなく、引き留められた」と続けています(のちに互いに安否を確認しています)。アダムズは相模(現在の神奈川県)の三浦に250石の所領と、江戸に邸宅を与えられ、日本名を三浦按針(あんじん)といいました。

家康の開いた江戸幕府は15代の将軍を数え、260余年の「太平の世」をもたらしましたが、家康が学問を好んだことも江戸時代に平和が続いた大きな要因でした。

家康は儒者の藤原惺窩(せいか)に学び、林羅山を登用して、古典の収集、書写、印刷等にも力を尽くしました。江戸時代のはじめから各層の人々の間に見られる学問、文芸興隆の動きは、幕府の学問尊重の姿勢と表裏したものでした。刀槍、弓馬、鉄砲、水泳などの奥義まで究めていた家康は、「海道一の弓取り」(「東海道で最強の武将」の意)といわれました。

しかし、戦闘に勝利すれば覇者にはなれても、天下を長く治めるには学問が不可欠だということを知っていた「好学の武将」でもあったのです。江戸時代は一面ではさまざまな学問が花開いた時代でもありました。

空前の長期平和を実現した「忍」の心

家康の一生は「忍」の実践であったとのちに評されています。あせらず、怒らず、時の来るのを待って適切な行動に出たということです。

竹千代と名乗った幼年時代の6歳から19歳に至るまで、織田氏のもとで2年、次いで今川氏のもとで12年の長きにわたって人質生活を送りました。今川、織田両氏の勢力争いに弱小の松平氏が翻弄されていたからですが、こうした辛苦が家康に隠忍持久の精神を身につけさせたと考えられます。

家康は、今川義元が織田信長に斃されると織田信長と同盟し、信長亡き後は豊臣秀吉に協力しつつ地歩を固め、秀吉が歿したときには押しも押されもしない実力者になっていました。そして「天下分け目」の関ヶ原の戦いに勝利し、次いで豊臣家を滅ぼし、世界史にも例を見ない長期平和を実現したのでした。


・・・偉人を偲ぶ言葉・・・

人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思ひ出すべし。堪忍は無事長久の基。怒りは敵と思へ。勝つことばかり知りて負くることを知らざれば、害その身に至る。己れを責めて、人を責めるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。(「東照宮遺訓」)


(本記事は『日本の偉人100人(下)』(寺子屋モデル・編著)(弊社刊)より一部を抜粋・編集したものです)

 20年ほど前、海外勤務から帰国した折に目に飛び込んできた子供たちの冴えない表情がきっかけとなり、日本の子供たちの自己肯定感・自尊感情の低さに危機感を抱いた著者(寺子屋モデル代表)。
 子供たちの「生き方の手本」ともいえる「偉人伝」の存在が失われつつあることに着目し、「偉人伝」から生き方を学ぶ「寺子屋」事業に従事してきました。
 本書はその中でも、世のため人のために行動し、国柄を重視して生きた100人を厳選。驚異的な努力によって世界的名声を得た医者、野口英世や、ヘレン・ケラーがお手本にした失明の大学者、塙保己一など、収録された偉人たちは有名無名を問いません。下巻は幕末から古代の偉人について語られ、日本の長い歴史を遡っていくように読み進められる構成も愉しい一冊。

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