2021年04月11日
薩摩藩主の腹心でしかなかった西郷隆盛が、思想的飛躍を経て、日本の西郷隆盛になった。童門冬二先生は、そのきっかけをつくったのが、水戸藩士・藤田東湖だと述べられています。二人の間で、果たしてどのようなやり取りがなされたのでしょうか。今回で本シリーズは終幕です。
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西郷はこうして思想的飛躍を果たした
西郷隆盛が藤田東湖に会ったのは安政元年(1854)のことだったといわれる。つまり、東湖が地震で圧死する前年のことだ。
東湖49歳、西郷隆盛28歳である。
この時東湖は西郷にこんなことをいっている。
「いまの世の中の動きをみていると、外国側も次第に日本の政治のあり方に疑問を持ちはじめている。それは徳川幕府が、条約を結ぶ際に必ず勅許が必要だということだ。
これは外国からみれば、自分たちが外交権を持つ政府としての徳川幕府を相手に交渉をしているのに、その徳川幕府は天皇に許可を求めている。これは一体どうしたことか。
日本の主権は京都の天皇にあるのであって、徳川幕府は単なる代行者ではないのか、という論がどんどん起こってきている。この事実は無視できない。そうなると、やはり一番いいのは徳川幕府が軸になって連合政権を組むよりも、むしろ天皇が自ら親政を行われることだ。そうなれば、この国も挙国一致体制が取れる。
しかしそういう状況をつくり出すのには主導者が必要だ。主導者は、徳川幕府に連なる大名ではだめだ。むしろ外にあって、実力を蓄えている大名が望ましい。きみの主人、薩摩藩主である島津斉彬公など、最もその条件を満たしている。そうは考えないか?」
おれは、薩摩藩という小さな井戸の中の蛙だった
西郷隆盛はびっくり仰天した。藤田東湖のいっているのは、
「徳川幕府など見限って、京都の天皇に忠節を尽くせ。そして、天皇を中心とした連合政府をつくれ。その主導者になるのは、おまえの主人島津斉彬様だぞ」
と、公然と徳川幕府に対する反乱をそそのかしているからだ。一目会った時、西郷隆盛は藤田東湖に対する印象を、
「まるで山賊の親分だ」
と人に語っている。西郷が度肝を抜かれ、藤田先生は山賊の親分だといったのは、東湖の容姿の印象だけからそう思ったのではなく、おそらくこの発言にあっただろう。
しかし西郷は感動した。そして改めて、
「いままでのおれは、薩摩藩という小さな井戸の中の蛙だった。藤田先生はさすがに日本全体を見渡し、世界情勢をわきまえておられる」
と悟った。薩摩藩主島津斉彬の一腹心にすぎなかわた西郷吉之助が、大きく日本の西郷隆盛に飛躍するきっかけになった。
本来なら藤田東湖がこんなことをいうのには、東湖自身の思想を自分の手で実現したかったに違いない。しかし、物事の達成には、三条件がある。
・天の時
・地の利
・人の和
である。東湖のみるところ、水戸徳川家にはこの三条件が欠けている。
天の時というのは運だ。地の利というのは条件である。そして人の和というのは、リーダーシップや結束力などをいう。
この三つのモノサシを水戸徳川家に当てはめてみた場合、なんといっても徳川一門の御三家という立場が、露骨に徳川家に背くことを許さない。この三条件がことごとく、東湖の思想を妨げる壁になっていたことが、いわば、
「尊皇敬幕」
という、曖昧な思想を天下に告げなければならなかった藤田東湖の限界があったのである。
〈おわり〉
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
(本記事は月刊『致知』1995年6月号 連載「新代表的日本人」から一部抜粋・編集したものです)
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◇童門冬二(どうもん・ふゆじ)
昭和2年東京生まれ。東京都庁にて広報室長、企画調整局長を歴任後、54年に退職。本格的な作家活動に入る。第43回芥川賞候補。平成11年勲三等瑞宝章を受章。著書は代表作の『小説上杉鷹山』(学陽書房)をはじめ、『人生を励ます太宰治の言葉』『楠木正成』『水戸光圀』(いずれも致知出版社)『歴史の生かし方』『歴史に学ぶ「人たらし」の極意』(共に青春出版社)など多数。
★童門先生がお寄せくださった『致知』へのメッセージ★
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