藤田東湖を知る〈3〉吉田松陰と藤田東湖の不思議な関係

現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』に登場し、その生き様が話題を呼んだ人物がいます。幕末維新の指導者たちに多大な影響を与えた水戸藩士・藤田東湖です。山口県萩の松下村塾で、同じく、若き志士たちの心に火を点けた吉田松陰とは「不思議な関係」があったといいます。作家の童門冬二先生が読み解きます。

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吉田松陰が東湖に認めた「至誠」の精神

吉田松陰はその学塾「松下村塾」で、いろいろな教材を使った。

基本的には、松陰がテキストにしたのは人間にとって毎日起こる身近な事件だったが、松陰はそれを政治と結びつけ、「なぜ、こういう事件が起こるのか、起こさないためにはどうしたらいいのか」ということを、弟子たちといっしょに考えた。

その松陰は、テキストのひとつに藤田東湖の『正気歌』と『回天詩史』を使っていた。松陰が生涯好んで口にしていた言葉は孟子の、

「至誠にして動かざるもの、いまだこれあらざるなり」

というものである。松陰はこの言葉の実践のために自己の生命を全部燃やしつくしてしまったのだといっていい。

松陰は東湖の『正気歌』と『回天詩史』の中に、自分が信ずる孟子の「至誠の精神」の存在を認めた。

特に松陰自身は、自分でも気がついていたことだが、

「人間がいかなる状況においても至誠の精神を貫き通すのには、場合によっては“狂”の力を借りることもやむを得ない」

と考えていた。松陰の性格には多分にそういうところがあった。そして松陰の見るところ、

「藤田東湖先生にも、その“狂”がある」

と思えたのである。東湖と松陰が長い時間をかけて語りあったことはないが、そういわれてみれば東湖もおそらく、

「いや、吉田先生、おっしゃるようにわたくしにも“狂”の精神があります」

と率直に認めたに違いない。

 (中略)

以後、藤田東湖は敬三郎を藩主にした功績によって、側用人に抜擢され、斉昭のブレーンとして藩政改革に努めた。

かなり思いきったことも行った。しかし一貫して支え抜いたのは、水戸徳川家二代目の“黄門様”と呼ばれた光囲が興した『大日本史』の編修事業であった。『大日本史』は、

「あんな金食い虫はない」

と、財政を心配する連中からは悪評噴々たるものがあったが、藤田東湖とその父・幽谷は、もともとこの事業を行うために古着屋から登用された学者だったので、この事業だけはどんなに財政難化になっても絶対に廃止はしないと心を決めていた。(つづく)


(本記事は月刊『致知』1995年5月号 連載「新代表的日本人」から一部抜粋・編集したものです)

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◇童門冬二(どうもん・ふゆじ)
昭和2年東京生まれ。東京都庁にて広報室長、企画調整局長を歴任後、54年に退職。本格的な作家活動に入る。第43回芥川賞候補。平成11年勲三等瑞宝章を受章。著書は代表作の『小説上杉鷹山』(学陽書房)をはじめ、『人生を励ます太宰治の言葉』『楠木正成』『水戸光圀』(いずれも致知出版社)『歴史の生かし方』『歴史に学ぶ「人たらし」の極意』(共に青春出版社)など多数。

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『致知』が創刊40周年を迎える。実をいえば私も退職40周年を迎える。退職直後から『致知』に作品を載せていただき現在に及んでいる。私にとっては“感謝”の40年だ。“日本の良心”として、いよいよご発展あらんことを。

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