2021年05月28日
東京帝国大学の林学博士として長きにわたり教鞭をとる傍ら、日比谷公園のほか数百の公園を設計し「公園の父」と呼ばれた本多静六(ほんだ・せいろく)。静六は学者である一方、独自の金銭哲学をもとに一代で巨万の富を築いた蓄財王でもありました。そんな静六の姿を、東京工芸大学の学長を務めた令孫・本多健一氏に語っていただきます。
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9歳で父を失い、苦学して東京帝国大学教授に
本多静六は慶応2年、埼玉県菖蒲町(旧河原井村)に生まれ、昭和27年、静岡県伊東市で没しています。85年の生涯でした。
9歳で父親を失い、苦学の末、東京農科大学を卒業。ミュンヘン大学へ留学。経済学博士の学位を取得します。帰国後東京帝国大学教授となり、定年まで27年間、林学の教育研究に従事しました。この間、日本初の林学博士となり、東京の日比谷公園、明治神宮の森など合わせて数百の公園設計に当たり、「公園の父」とも呼ばれています。
私は祖父が東大を定年で辞めた頃に生まれ、小さな頃は「坊や」と呼ばれていました。そのためか私には好々爺の印象が強く残っているのですが、父は、祖父のことを非常に厳しい人だったと言います。
小学校の頃はどこに行くにもよくお供に連れていかれました。とても可愛がってくれましたので、ときどき「本を買ってください」とねだったものですが、「そんなものは親から買ってもらいなさい」と、いつもピシャリと断られました。
祖父は山歩きが好きで、70代になるまであっちこっち歩き回っていました。私もよくそのお供をして一緒に歩きました。当時箱根に山荘があって、夏季は2、3か月間そこで過ごしていました。
ご承知のとおり、箱根には相当険しい坂道があります。そうした道も、祖父は近所の若い植木屋の青年に腰縄で自分の体を結び付けて引っ張ってもらい、毎日のように歩いていたのです。
いつも木の枝を切っただけの杖を持ち、陣笠のような笠を被って植木屋さんに腰縄で引っ張ってもらっていたのですから、通り掛かりの人は、皆変な顔をしてこちらを見ていましたが、祖父の方は、一向に気にならぬ様子でした。
60歳を過ぎた後はお礼奉公のつもりで
「60歳になるまでは一生懸命働いてお金も稼ぐ。しかし60歳を過ぎた後はお礼奉公のつもりで、社会のために無報酬で自分の能力を生かした仕事をする」
定年後は自らの所信を実行に移し、毎日、10年以上も無報酬で帝国森林会へ出掛けて働いていました。講演も随分こなし、年中家を空けていました。最初は山林とか植林、公園の話をしていたのが、次第に人生論、倹約、蓄財などの話に内容が変わっていきました。
本人のモットーは“晴耕雨読“で、亡くなる直前までそれを実行していました。それこそ雨の日は1日何時間でも机に向かっていましたし、晴れれば山歩きや畑仕事をしていました。
祖父60歳の時の写真が残っています。自分の著作を積み上げた横に立っている写真です。それは本がちょうど背の高さまで積み重ねられています。その本は全部専門書だったはずです。しかしその後は人生論などの本を多く著しましたので、そうした本を積み上げればおそらく同じように背丈ほどの高さになっていたでしょう。
さて、そんな祖父について、私の印象に強く残っている出来事が2つあります。1つは私に外国行きを強く勧めてくれたことで、もう1つは結婚観を語ってくれたことです。
外国行きを勧めたのは自分がミュンヘン大学に学んだ経験があったからでしょう。日本の中だけの人間で満足することなく、世界的な広い視野を持てということだったのだろうと思います。私は一人っ子でしたので両親には随分反対されました。フランス行きは祖父に背中を押される形で実現しました。
一方、結婚観の方はどうかというと、祖父は婿養子だったのですが、私には相手の家柄だの財産だのということは考慮せず、とことん人物本位で考えなさいと助言してくれました。フランスに行くのなら、青い目の嫁さんと結婚しても一向に構わないとも言いました。
当時としては、こうした考えはかなり進歩的だったはずです。
感謝は物の乏しきにあり 幸せは心の恭倹にあり
私たちが祖父から引き継いだ訓え、あるいは家風と言えば、我が家には「人生即努力、努力即幸福」の書が掛けられていました。祖父はこれをいつも口癖のように言っていましたし、人に頼まれて何か書く場合にもこの言葉を書きました。
また、これは祖父が実践していたことで、私が引き継いでいるわけではありませんが、祖父は食後の休息、唾眠を心がけていました。勤めから帰ってきて夕飯を食べるとすぐに寝ます。それで夜中に起き出して朝方まで書き物の仕事をしていました。昼もそうで、昼食の後に家にいれば昼寝を1、2時間して、それからまた書き物をしていました。
祖父は85歳で亡くなりましたが、120歳まで生きるとよく言っていました。健康には自信を持っていたのです。その祖父の健康法の一つが、この食後の休息、睡眠にあったのは確かです。
祖父はまた、生涯「倹約」を通した人でしたが、晩年の多額の寄付や、到来物のおすそ分けの実践などを考えても決してけちではありませんでした。祖父の残した人生訓にはまた次の言葉があります。
「感謝は物の乏しきにあり。幸せは心の恭倹にあり」
物が乏しいほど心はむしろ豊かに幸せになるというのです。現代日本の荒涼とした精神風土に物質的繁栄が関係していることは否定できないと思います。
「物を求めず、何事にも努力し、心を恭倹に保ちさえすれば、誰もが幸せな人生を送ることができる」
祖父・本多静六は私たちにそう語りかけているのです。
(本記事は『致知』2000年8月号 特集 「異質化する」より一部抜粋したものです) ◎各界一流プロフェッショナルの珠玉の体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。あなたの人間力を高める、学び続ける習慣をお届けします。 たった3分で手続き完了、1年12冊の『致知』ご購読・詳細はこちら。
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