2020年09月06日
自然石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積」を得意とした、近江の石工集団・穴太衆。安土城をはじめ姫路城に江戸城、大阪城に彦根城など、現存する城の石垣の実に8割以上が穴太衆の手によるものとされています。大きさも形も異なる不揃いの自然石をどう積み上げるのか。なぜ2、300年という長い風雪に耐えることができるのか――。人間国宝の粟田万喜三氏を父に持ち、阿波屋喜兵衛14代目として穴太衆の技術を受け継ぐ粟田純司氏(粟田建設代表取締役会長)に、石積みの極意について語っていただきました。
※インタビューの内容は2006年当時のものです。
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父の教えに反発していた修業時代
17年前に亡くなった父は「石を積ませて鬼」といわれた人間国宝の粟田万喜三ですが、その父のもとにさえ十分な仕事はありませんでした。文化財の修復や保護にも、現在のように世間の関心がなかった頃のことです。この先はとても食べていけそうにないと、私は大学卒業後、県庁の試験を受けることにしました。ところが父は、せっかく届いた内定通知を見るなりすぐに破り捨て「石積みの仕事を覚えるには最低でも10年はかかる。こんなことをしていて一人前の継承者になれるか」と私を一喝したのです。
その後、父について仕事を始めた私でしたが、大学で土木を専攻していたこともあり、「ここにこれだけの力が加われば石垣は崩壊する」だの「理論上はこうなる」だのといった理屈を並べ立てては、よく父から叱られていました。
そして約1年が経過した頃。父から「ここを積んでみろ」との指示を受け、自分では満足のいく出来栄えだったのですが、父はバール(かなてこ)を持ってくるなり、それを一気にぶち壊してしまったのです。どこが悪いのかと尋ねても「仕事は教わるもんと違う。盗め」と言うだけで、何も答えてはくれません。
私はふて腐れながらも父の積み方をじっと観察してみました。すると、自分の気持ちにまかせ無理に石を収めようとしていた私と違い、父はトン、トン、トンと実に自然な調子で石を置いていくのです。いま思えば、父にはやはり石の声が聞こえていたのでしょう。
ただ当時の私は、いくら石の声を聞けと言われても、そんな馬鹿なことがあるものかだの、こんな将来性のない仕事、いつだってやめてやるといった気持ちで、芯からは作業に身が入りませんでした。父はそんな私に「おまえは石の声を聞いていない。石と友達になったつもりで語りかければ、自ずと積める」という言葉を口にするのでした。
「この仕事はあなただけのものじゃない」
転機が訪れたのは、修業から5年が経過した日のことです。私たちの仕事を視察に訪れたある大学教授が「この仕事はあなただけのものじゃない。後世に残していく技術です。だから必ず身につけなくてはいけない。それがあなたの使命ですよ」と言われたのです。私が性根を入れて仕事に打ち込み始めたのは、その一言があってからのことでした。
そして31歳になったある日。安土城の石垣修理をしていた時のことでした。熟慮の末に石を収めた時、何か「コトン」という音が聞こえた気がしたのです。私はその時、石が「これでよし」と答えてくれたように感じました。いまのが石の声というやつか。後で仕上がりを見てみると、やはりその石が収まりよく、落ち着いた雰囲気を漂わせています。
それ以降、私は「おまえはどこへ行きたいんや」と石に問いかけ、石の気持ちを聞くよう努めるようになりました。そして石の声に従っていくと、迷わずトン、トン、トンと置いていけるようになり、仕事の効率も格段に上がるようになりました。
ただ不思議なもので、こちらが二日酔いをした時や体調のすぐれない時には、同じように問いかけても石は何も答えてくれません。積み手の思考力が弱まっている時には、石のほうもそっぽを向いてしまうものなのです。
こうした石積みの極意は、組織の人材活用法ともどこか通ずる部分があります。人の上に立つ人間が、各人の長所を見抜き、その人の能力が最大限に生かせるよううまく配置につけてやれば、会社は自ずと発展していくものなのではないでしょうか。
現在、わが社では地元の大学や宿泊施設、公園や文化施設などからの依頼を受け、近代建築に穴太積みを溶け込ませるという新たな試みを行っています。
先代から伝わってきた伝統技術を継承するのはもちろんのこと、私たちの仕事がいつか「平成の穴太積み」と呼ばれるような、後世に残る仕事をしていきたいと考えています。