信長はなぜ光秀に敗れたか——常勝の慢心が生んだ本能寺の変

謎多きクーデターとしていまなお盛んな議論を呼んでいる「本能寺の変」。戦国乱世を切り開いた織田信長の天下布武という野望が、明智光秀の謀反で潰えるに至った背景について、作家・政治史研究家の瀧澤 中(あたる)氏は、「常勝の確信」が生む油断があったと語ります。本能寺の変から現代の私たちが学ぶことのできる心構えとは――。瀧澤氏の著書『ビジネスマンのための歴史失敗学講義』から一部抜粋してご紹介します。

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過去の成功は未来を担保しない

織田信長は、戦国時代のみならず日本史上でもまれな、傑出した人物でした。
私は信長の残虐性には、いくら戦国時代の価値観を当てはめてみても行き過ぎの部分があったと感じています。

信長の生涯を描き「一級史料」とも言われている『信長公記』は信長の人生を肯定的に描いていますが、その『信長公記』ですら信長の所業について、「目をおおうばかり」といった表現が散見されます。なので、あまり信長を英雄視するのはよくありませんが、時代を変革したことは認めなければいけないし、その行動力は「本当に中世の人なのか?」と思うほど大胆で素早い。

しかし最後は、本能寺で明智光秀の謀反に遭って殺されますね。
明智光秀が謀反を起こした理由は諸説ありますが、「今なら信長を確実に殺せる」という確信を持っていたことは間違いないでしょう。

「織田信長はいま、本能寺に手勢100人ほど(諸説あります)しか連れずに宿泊している。これを1万人以上の軍勢で取り囲めば、確実に勝てる……」

ではなぜ、信長は本能寺に少数の手勢しか連れていなかったのでしょう。
信長が本能寺に宿泊するのはこの時が初めてではありません。
時々、少人数でやってきては泊まっていました。

行動を規制されることを嫌い、素早く自由に動き回りたい信長にとっては、いちいち大軍を引き連れて動くことが嫌だったのでしょう。特に、どこかを攻撃するためではなく自分を守るためだけに軍勢を割くというのは、信長独特の合理精神には反していました。

当然、家臣はそのことを知っています。
そして明智光秀は最も信長に近い位置にいましたし、京都には知人が多数いたため、信長の動きは完全に筒抜けだったわけです。

信長には、危機意識はなかったのでしょうか。
なかったと考えられます。

もし危機を感じていれば、別な行動をとっていたでしょう。少数で本能寺にいたのは、「周囲に敵がいない」という判断があったからです。
しかし、史実として明智光秀は謀反を起こしました。
ここで考えることは、はたして信長に慢心はなかったか、ということです。

信長は、過去の成功が未来を担保すると勘違いしてはいなかったでしょうか。
つまり「いままでこうやって成功してきた。だからこれからもこれでいい」という慢心です。

信長が教える勝利の怖さ

天正10年(1582)3月には武田勝頼を滅ぼし、畿内を中心に、東西南北に日本最大規模の所領を持つに至りました。

この度重なる勝利が、信長に慢心を抱かせたのでしょうか。
それははっきりしませんが、信長が本能寺を宿泊先にし始めるのが元亀元年(1573)です。京都に滞在するときによく利用していたのは当初、妙覚寺でしたが、天正5年(1577)には妙覚寺の隣に屋敷を造ります。が、これも理由は不明ですが2年ほどで皇太子・誠仁親王に譲渡し、天正8(1580)年から本能寺を定宿とします。

天正8年は、信長にとって大きな転換点でした。
10年も戦い続けてきた本願寺との和睦が成立し、各地の一向一揆は信長と組織戦を戦えなくなりました。また、関東の北条氏が信長に従属を申し入れ、中国地方では羽柴秀吉が播磨を制圧します。

翌天正9年(1581)には高野山を攻撃、天正10年(1582)には武田家を滅ぼし、四国の長宗我部氏、中国の毛利氏は風前の灯火、越後の上杉氏も圧倒されていました。
つまり天正8年を境に、信長は完全な積極攻勢を行える体制になったのです。

この年石山本願寺との10年にわたる戦いが終止符を打たれたことは、大きかったでしょう。
全国で信長に反抗する一揆をこれで沈静化できますし、何より、相当な軍勢を石山本願寺に貼り付けておかなければならなかったことは、全国制覇を夢見る信長にとっては足かせになっていました。足かせが外れたことで、全国への侵攻が加速されます。

完全攻勢に移った、すなわち畿内にほとんど敵はなくなった時期が、本能寺を本格的に定宿にして利用し始める天正8年の様相であったわけです。

周囲に敵なく、北陸、関東から東国、四国から中国まで、信長の勢力下に置かれる寸前でした。

そして天正10年(1582)6月2日、本能寺の変が勃発します。

私が信長の油断を感じるのはまさにこの時です。

早朝、信長は外の騒がしさに「様子を見てこい」と命じ、見てきた者の報告で明智光秀の謀反を知ります。

ということは。
光秀が桂川を渡って市中に入り、十重二十重に本能寺を囲むまで、信長には情報が入ってこなかったということです。

あの、慎重の上にも慎重を期して、田楽桶狭間周辺で索敵を行った信長は一体どこへいったのでしょうか。
1万を超える軍勢が京に入れば、必ず本能寺を囲む前の段階で何らかの情報が入るはずですが、信長は周囲にそうした網をまったく張っていなかったことになります。

勝利を重ねることで自信を増し、それが常勝の確信から油断に変化する……。
勝利の怖さが、おわかりいただけますでしょうか。

(本記事は『ビジネスマンのための歴史失敗学講義』(致知出版社刊)より一部を抜粋・編集したものです。あなたの人生や仕事の糧になる教えやヒントが見つかる月刊『致知』の詳細はこちら

◇瀧澤 中(たきざわ あたる)

作家・政治史研究家
昭和40年東京都出身。平成13年『政治のニュースが面白いほどわかる本』(中経出版)がベストセラーとなり、時事解説を中心に著作活動を続ける。また日本経団連・21世紀政策研究所で平成23年~25年まで、日本政治プロジェクト・タスクフォース委員を務めた。政権交代の混乱期に「リーダーはいかにあるべきか」を徹底議論、報告書作成に関わる。また、『秋山兄弟 好古と真之』(朝日新聞出版)や『日本はなぜ日露戦争に勝てたのか』(KADOKAWA)等で、教育や財政面から歴史をやさしく解説し好評を得、その後『「戦国大名」失敗の研究』(PHP研究所)をはじめとする「失敗の研究」シリーズ(累計19万部)を執筆。自衛隊や日本経団連はじめ経済・農業団体、企業研修、故・津川雅彦氏主宰の勉強会で講師を務めた。マスコミで「近現代の例と比較しながら面白く読ませる」(日本経済新聞)と取りあげられるなど、〝むずかしいを面白く〟の信念のもと、「いまに活かす歴史」を探求する。

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