陶磁器メーカーの先駆・森村市左衛門は、失意のどん底からいかに立ち上がったか

食器や衛生陶器に代表とされる「陶磁器」。この分野で活躍している企業といえば、TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業、ノリタケといった世界的なメーカーが思い浮かぶことでしょう。実は、これら各企業の源流となっている人物がいます。森村グループの創業者・森村市左衛門(もりむら・いちざえもん)です。その孫にあたる森村武雄氏に、市左衛門翁が有していた並々ならぬ創業者精神について解説いただきました。対談のお相手は北里柴三郎の孫、北里一郎氏です。

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福澤諭吉との縁を生かす

(北里)
福澤諭吉先生と森村市左衛門氏は、どちらでご縁を結ばれたのですか。

(森村)
市左衛門は1859年に横浜港が開港したのを機に、居留地で仕入れた洋服や雑貨を売り歩いていたのですが、そのうち中津藩(現在の大分県中津市)の信用を得て福澤先生をご紹介いただいたのです。

森村家は遠州から江戸京橋に出てきた旗本出入りの馬具商で、祖父は6代目でした。ところが1855年、16歳の時に起きた安政江戸大地震ですべてを失ってしまうのです。そこから人足や露天商を営んでなんとか食いつないでいたので、横浜で福澤先生とご縁をいただいたのはその後ですね。

(北里)
開港した1859年といえば、福澤先生が24歳の時です。

(森村)
市左衛門は4つ下でしたから。20歳の頃でした。お付き合いを重ねるうちに福澤先生からお話がありましてね。いまの貿易を見ていると、日本が外国にものを売ってもらう代金は価値の低いメキシコ銀で、日本が向こうから買って払うのは純銀だと。

こんなことをしていたら、日本は潰れるから、貿易商を始めてなんとかしてほしいと頼まれたのです。それで、当時13歳だった弟の豊(とよ)を慶應義塾に学ばせて一緒に森村組をつくり、ニューヨークへ送り出して貿易を始めたのです。

そのうち祖父は、パリ博覧会を見に行った時に、向こうで素晴らしい陶器をたくさん見てビックリして、こういうものを作らなければ駄目だ、自分たちで製造を手がけようということで、日本陶器(現ノリタケ)、という会社を設立したのです。

そこから碍子(がいし)製造の日本ガイシ、プラグの日本特殊陶業、衛生陶器のTOTO、洋食器のノリタケという、いわゆる森村系の会社をつくったわけです。

(北里)
今日の森村グループの原点となった貿易についてのヒントを与えてくださったのが、福澤先生だったのですね。それにしても、一代でそこまでのことをおやりになったのは大変なことです。

弟と息子の相次ぐ死

(森村)
アメリカに派遣した(市左衛門の)弟の豊が、食うや食わずで努力をした功績が初期の礎(いしずえ)をつくる上では非常に大きかったのです。夜は倉庫の中の箱の中に寝たとか、食べるものは倹約してパンをかじって済ませたとか、そういう大変な辛酸をなめて、それもあってか体をこわして早くに亡くなってしまったのです。

市左衛門は同じ年に一人息子の明六も亡くしましてね。当時を述懐してこんな言葉を残しています。

「たいていのことには屈しないつもりでおった自分も、一時はほとんど呆然として左右の手を失ったような気がしました。自分はこういうことを考えました。いつまで悲しんでも結局、無益なことである」

「これを機として精神を奮い起こし、ますます身体を強壮にし、(弟の豊と息子の明六)両人の精神を受け継いで大いに奮闘しなければならぬ」

市左衛門は二人のお葬式にいただいたお香典と、森村組の重役たちからの出資をもとに「森村豊明(ほうめい)会」という財団をつくって公共事業や慈善事業を起こしました。これからの日本を背負って立つには、若い者を育てなくてはいかん。それには、母親を育てる女子教育が非常に大事だということで、森村学園を設立したり、ご縁のあった慶應義塾大学、早稲田大学、日本女子大学に助成したりしました。

明治・大正を通じて行った助成の記録があるのですが、「金額回数不詳」と書いてあるところに、「北里研究所」とあります。調べてみたら、明治25年に最初に助成させていただいているのです。

(北里)
本当にありがたいことで、心から感謝しています。市左衛門氏が弟の豊さんを慶應義塾にお入れになったのは、やはり福澤先生の感化を得ておられたからでしょうね。

(森村)
市左衛門が弟の豊を慶應に行かせようとした時、彼はまだ13歳でした。他の家に奉公に行っていたのを呼び寄せて貿易に乗り出す決心を話したら、「兄さんがそういうなら、私も国のためにやりましょう」ということで、慶応に入って勉強したようです。

(北里)
それにしても、市左衛門氏という方は、一代でそこまで財を成した才覚といい、その使い方といい、本当に見事です。いまの社会を見回しても、市左衛門氏ほどのスケールの大きな人はちょっと見当たらないですね。


(本記事は月刊『致知』2008年11月号 特集「挑戦者たち」より一部を抜粋・編集したものです)

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◇森村市左衛門(もりむら・いちざえもん)
1839~1919年。江戸京橋西白魚屋敷(現在の京橋3丁目)に生まれる。陶磁器4大企業(TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業、ノリタケ)の歴史の源流となる森村財閥の創設者。1855年16歳の時、安政江戸大地震ですべてを失い、露天商を営み家族を養う。59年開港した横浜で商売を始め、中津藩を介して福澤諭吉の謦咳(けいがい)に接する。76年森村組、78年ニューヨークに「森村ブラザーズ」を設立し、骨董、陶器の輸出入を展開。1904年日本陶器合名会社設立(当時の工場・本社の一部は「ノリタケの森」=写真=として残されている)。

◇森村武雄(もりむら・たけお)
森村設計会長。1925年東京都生まれ。祖父は森村財閥の創始者・森村市左衛門。47年大阪大学工学部造船学科卒業。会社勤務を経て、65年森村協同設計事務所(現森村設計)設立、社長に就任。95年会長。(略歴は取材時)

◇北里一郎(きたさと・いちろう)
明治製菓最高顧問。1932年東京都生まれ。祖父は細菌学者の北里柴三郎。慶應義塾大学工学部応用化学科卒業後、55年明治製菓入社。95年社長、2003年会長を経て同社最高顧問。薬学博士。(略歴は取材時)

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