松下家最後の執事が語る:松下幸之助の「水道哲学」を支えた、むめの夫人の横顔

丁稚から身を起こし、一代で松下電器産業を世界的企業へと育て上げた松下幸之助。「経営の神様」と呼ばれる数々のエピソードは様々な形で語り継がれ、いまなお色あせることなく、人々の人生や仕事を導き続けています。本記事では、松下家の最後の執事を務めた高橋誠之助さんに、松下幸之助の原点とそれを支えた妻・むめの夫人の横顔を語っていただきました。

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風呂に行くお金も底をつく

〈高崎〉
むめの夫人は明治29年、井植家の次女として兵庫県の淡路島に生まれました。お父様は船乗りで、時には北海道や朝鮮まで行って貿易をしていました。板子1枚、下は地獄の世界を生き抜いた豪放磊落な父。母はそんな夫を支え、8人の子供を育て上げたしっかり者。むめのさんはその両方を確かに受け継いだお人柄でした。

そういう家庭で育ったからこそ、夫の人生を懸けた挑戦を心から応援することができたのでしょう。大正6年、幸之助さんが22歳の時に電燈会社を辞め、ソケット製造の仕事を始めます。当時、電燈会社は日給制で、体の弱かった幸之助さんは「ずっと会社勤めは無理だ。自分で商売をしたい」と、独立は早くから考えていたようでした。

しかし、独立後、夫妻は大変なことに気づきます。肝心のソケットのつくり方を知らなかったのです。電気工時代、幸之助さんは毎日ソケットに触れていたので、アスファルトと石綿、石粉あたりが原料と簡単に考えていましたが、調合の方法が分からない。

「むさんこな人」。関西でいうところの「無謀な人」という意味ですが、つくり方も知らずに起業するとは、幸之助さんはまさに「むさんこなお人」でした。

では、その後どうやってソケットをつくったのか。

幸之助さんは近所の練り物工場が仕損じの欠片を捨てた後、ゴミ捨て場を漁り、それを拾って研究したのです。それは執念というより、むしろ一種の「狂」の世界だと言っていいでしょう。世の中で物事を成し遂げた人たちは、皆この「狂」の部分を持っているのではないかと思います。

そうしてやっとソケットがつくれるようになっても、まったく商売が分からず、売れない日々が続きます。嫁入り道具として持ってきた指輪や着物を質入れして事業資金を調達していましたが、それも底を突き、ある時、風呂に行くお金もなかったといいます。

「当時はお風呂代が確か2銭だったと思いますが、その二銭がなかったのです。主人は一日中、仕事場で没頭して、体は汗だらけ、汚れてしまっているわけです。ですからどうしてもお風呂へ入らなくてはならない。主人は手拭を持って『これから風呂へ行くからお金を』と言うのです。

その時、私は『お風呂代がない』とは言えません。主人にそんなことで心配させるのは悪いと思って……」(松下むめの著『難儀もまた楽し』より)

この時、むめのさんは「どうも調子が悪いから一度あなたに見てもらいたいといわれている品物があるのですが」と言ったそうです。すると、幸之助さんは手拭いを放って、その品物を触り出し、お風呂に行くことも忘れて没頭してしまったといいます。

その間、むめのさんはお湯を沸かし、幸之助さんの仕事が終わった頃に「きょうは遅くなりましたから、お風呂に行くのをやめて、行水でもしたらどうですか。ちょうどお湯も沸いていますし、捨てるのがもったいないので……」と言って、その場を凌いだそうです。

夫に生活のことで心配をかけてはいけない。若き日のむめのさんの健気な思いが伝わってくるエピソードです。

水道哲学の誕生

〈高崎〉
世に松下電器の名前が知られるようになった頃、幸之助さんに一つの精神的な転機が訪れました。

友人に誘われ、ある宗教団体を訪ねた時のことです。普段、従業員たちはお給料をもらっていながら、不平不満を口にして働いている。しかし、その宗教団体の信者たちは1銭ももらっていないのに、嬉々として働いているのです。

自分たちは何のために働くのか。何のために生きるのか。それを真剣に考えるようになり、「松下電器の真の使命は楽土の建設である」と悟るのです。

昭和7年の第1回創業記念式典で、幸之助さんは「水道哲学」(水道の水のように物資を潤沢に供給することにより、物価を低廉にし、消費者の手に容易に行き渡るようにしようという思想)を発表。

さらには、その楽土の建設のために250年の計画を立て、それでも実現しなければもう250年かけて実現せよ、と言っています。つまり500年先を見据えて事業を行っていたのです。松下電器では、この昭和7年を真の使命を知った「命知元年」と呼んでいます。

むめの夫人はその翌年に会社を退きました。創業当初、どうにか生計を立てるために2人で懸命に働いてきましたが、企業の成長とともに夫の目指しているスケールがどんどん大きくなっていく。普通の夫婦であれば、ここで奥さんは自分の世界を持ち始めるところです。しかし、むめのさんは夫の成長についていくよう陰でものすごく努力されていました。

私が執事をしていた頃、幸之助さんが高松塚古墳関係のお役を引き受けられたことがあり、家庭でも『万葉集』の話が出る機会がありました。以来、むめのさんは朝から晩まで、こちらが「そんなに」と思うほど『万葉集』に関する講義のテープを聴き、さらには大学の先生を招いてレクチャーを受けていたのです。

といって『万葉集』を勉強している素振りを見せることはなく、幸之助さんが「あれ、『万葉集』の、なんやったけ?」と聞くと「私もよう分かりませんけれど、こうと違いますやろか」と答える。昔から「能ある鷹は爪を隠す」と言いますが、最近の女性のように爪をピカピカに磨いてみんなの前で見せびらかすようなことはしないのです。

この一件からも分かるとおり、むめのさんの生涯はレディーファーストならぬ「夫ファースト」を貫いた人でした。


(本記事は月刊『致知』2011年11月号 特集「人生は心一つの置きどころ」から一部抜粋・編集したものです)

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◇松下むめの(まつした・むめの)
明治29年兵庫県淡路島生まれ。浦高等小学校卒業後、大阪・船場の旧家に奉公に出る。大正4年19歳で松下幸之助と結婚。7年に松下電気器具製作所を創業し、経理事務を一手に引き受ける一方、住み込み従業員の食事や風呂の世話などして事業を支え、「社員の母」と慕われた。昭和8年本店・工場が門真市に移ったのを機に第一線を退いたが、その後も幹部社員の夫人の親睦会「みどり会」を結成し、側面から経営を支援した。平成5年97歳で死去。著書に『難儀もまた楽し』(PHP研究所)がある。

◇高橋誠之助(たかはし・せいのすけ)
昭和15年京都府生まれ。38年神戸大学卒業後、松下電器産業(現・パナソニック)入社。45年松下家の執事の職務につき、20年以上松下家に関する一切の仕事を担う。幸之助・むめのの臨終にも立ち会う。平成7年、幸之助の志を広めるために設立された財団法人松下社会科学振興財団の支配人就任。17年定年退職。

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