自決覚悟の乃木希典に、明治天皇がかけた言葉

明治天皇が崩御されたのは明治45(1912)年7月30日のことです。そして陸軍練兵場(現在の神宮外苑)で大喪の礼が執り行われた9月13日、乃木希典大将、静子夫人は明治天皇に殉じて自刃を遂げました。その忠誠心に心を打たれた国民が乃木邸を訪れるようになり、創建されたのが乃木神社です。歴史に刻まれた乃木大将の生き方を高山亨名誉宮司に振り返っていただきました。

軍人のあり方に目覚めたドイツ留学

(高山)

文蔵(後に希典)が軍人としての道を歩き始めたのは明治維新以降です。明治3(1870)年、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官となり、翌年には山県有朋の推挙により上京、大日本帝国陸軍の少佐に任官されました。23歳、異例の大抜擢でした。

乃木少佐は、九州の秋月の乱を鎮圧するなど様々な軍功をたてますが、そのような時、乃木少佐にとって終生忘れがたい痛恨事が起こりました。それは、明治10(1877)年の西南の役で敵方の西郷軍に、軍の魂ともいえる軍旗を奪われたことです。

乃木少佐は指揮官だった山県有朋に「待罪書」を送って厳格な処分を求めます。山県は不問にすると伝えますが、納得できない乃木少佐は幾度も自害を試み、約10年間、酒に溺れた生活を続けるのです。心配した母の壽子がお見合いを勧め、静子夫人と結婚はしたものの、放蕩生活は相変わらずでした。

少将となった乃木が生活を立て直すきっかけとなったのは、明治20(1887)年から約1年半のドイツ留学です。ドイツ陸軍の実情をじっくり研究せよ、との命で軍参謀総長モルトケから教育を受け、ドイツ陸軍の全貌に間近に接したことは、乃木少将が軍人として大成する基盤となりました。

ことにドイツ軍と庶民の生活の中に、維新前、自分が藩の有志と誓い合った時のような騎士道精神が息づいていると感じ取ったことは、乃木少将に武士道精神の開眼を促したのです。

旅順陥落を勝利に導いたもの

乃木少将はその後、日清戦争に従軍し旅順港を1日で陥落させたほか、中将となった後は台湾総督として賄賂が蔓延っていた役人たちの官紀粛正に努めます。そして明治37(1904)年、日露戦争が勃発すると、最初の剣が峰である旅順攻略で大将として陣頭指揮を執ることになるのです。

旅順要塞の攻略は熾烈を極めました。将兵たちの決死の正面突撃も、敵の十字砲火には全く歯が立たず、瞬く間に一帯は死体の山になりました。ロシア軍は旅順を奪った後、世界にも類のない大要塞を築いていたのです。

乃木大将の正面突撃を批判する向きもありますが、要塞への正面突撃はドイツ陸軍における鉄則でした。

開戦以来、乃木大将はほとんど睡眠を取ることなく、厳しい冬も暖房のオンドルは使わず、食事も兵士と同じものを食べて前線の兵士の苦痛を一緒に味わおうとしました。一方、内地からは乃木大将の指導力について激しい非難や更迭を求める声が相次ぎました。

しかし、「それはならぬ。もし途中で代えたら、乃木は生きていないだろう」と真っ向から更迭に反対し、大将をかばわれた方がおられます。明治天皇です。

明治天皇の深い御心を知った乃木大将は「一将軍にすぎない自分を、これほどまでに思ってくださるとは」と感激し自らを奮い立たせます。いまにも兵力が尽きんとする中、戦法を要塞攻撃から203高地の総攻撃に切り替え、激戦の末、ついに旅順を陥落させるのです。

亡くなるまで貫き通した心約

旅順攻略は勝利しましたが、155日間の戦いで5万9400名もの死傷者(うち戦死者1万5400名)を出しました。日本国民から凱旋将軍として迎えられながらも、乃木大将の心中は複雑だったはずです。明治天皇に拝謁した乃木大将は涙ながらに「この際、割腹してその罪を詫びたい」と訴えました。

しかし、明治天皇はそのいたたまれない思いを察しながらも「いまは死ぬべき時ではない。死ぬならば、私が世を去ってからにしなさい」と労われるのです。乃木大将が一人黙々と全国の遺族と傷病兵を見舞う日々は、ここから始まりました。

乃木大将は明治天皇との、この心の約束(心約)を守り通しました。敵側であるロシア兵の慰霊を含め、亡くなるまで見舞いを欠かすことがなかったのも、戦死傷者との心約だったのです。大切な契約すら簡単に破ってしまう現代において、私たちが学ぶべきはこの心約を全うした乃木大将の生き様なのではないでしょうか。

明治末期、マルクス主義など西洋思想の流入による風紀の乱れを憂慮された明治天皇は、教育が華美に流れないようにとの願いを込めて学習院長に乃木大将を任命されます。

ここでも乃木大将は明治天皇のご恩に報いるべく、寄宿舎で院生と寝食をともにし、銃剣や「四書五経」の音読に励む時が何よりの楽しみだと語っています。何事にも誠実な乃木大将の姿勢は、晩年まで一貫していたのです。

乃木神社は文武両全、夫婦和合の神様として知られています。しかし、君主に対する揺るぎない忠誠心、徹底した心約や公私の区別、誠実さ。これらの点もまた八百万(やおよろず)の神々のご神徳の中でも、乃木大将夫婦の特に秀でたところだと思うのです。

混迷の時代にあって、乃木神社が乃木大将夫妻をご祭神として祀るゆえん(神学)もそこにあるように思います。

(本記事は月刊誌『致知』2015年9月号の特集「百術は一誠に如かず」の記事より一部抜粋したものです。あなたの人生や経営、仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる『致知』の詳細・購読はこちらから)

乃木希典(のぎ・まれすけ)
嘉永2(1849)年~大正元(1912)年。長府藩士の家に生まれる。第2次長州征討に参加。明治4年陸軍少佐に任官。萩の乱、西南戦争に従軍。20年戦術研究のためドイツ留学。日清戦争では歩兵第1旅団長として旅順を占領。29年第3代台湾総督に就任。日露戦争では旅順攻略を指揮した。40年から学習院の院長を兼任。明治天皇大喪の日、静子夫人とともに殉死した。

高山 亨(たかやま・とおる)
昭和21年神奈川県生まれ。45年皇學館大学国史学科卒業。神社本庁勤務を経て47年乃木神社権禰宜、57年禰宜、60年宮司となる。平成26年より名誉宮司。同年より神社新報社代表取締役も務める。

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