潰れる寸前の酒蔵から、世界に誇る日本酒「獺祭」が生まれた理由

いまや入手困難な人気を誇る日本酒「獺祭」を手掛ける旭酒造。就任当時、潰れる寸前だった小さな酒造を、世界20か国に展開するまでに育てあげた3代目社長の桜井博志さんに経営の軌跡をお話いただきました。

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絶体絶命の大借金。それが飛躍への道だった

(「獺祭」で手応えを感じ始めたのはいつ頃ですか。)

「獺祭」は平成に入ってすぐから始めていますが、そこから6、7年経った頃でしょうか。

「獺祭」は初めから東京の市場に出ていきました。うちのような小さな蔵は、「人口10万人の岩国市で何%押さえる」というような小さな市場でシェア競争をしたら絶対に勝てません。それは経験から分かっていました。それならもっと大きな市場に出ていくしかない。東京進出も、追い込まれたからこそ生まれた苦肉の策でした。

そこから少しずつ軌道に乗り始めましたが、平成10年頃、一度踊り場に陥るんですね。当時は東京の卸業者を使っていましたが、納入しようとすると「そんなに売れていないから要らない」と言う。一方、卸先である酒屋さんからは「最近『獺祭』を入荷してくれない」という声が聞こえてきました。おかしいでしょう?

(なぜだったのですか?)

結局、業者が止めていたんです。卸業者は1つの商品だけを突出して売るより、仕入れたものを万遍なく売りたいわけです。また、中抜き商売だから蔵元と酒屋が密接に結びつくことを好まない。そうすると情報も入ってきませんから、いろいろな判断から卸業者との取り引きをやめて、直取引を始めました。

当時当社の売り上げが2億円のところ、その1社で7,000万円の取り引きがありましたから、大きな決断ではありました。また、業界紙などには「売れない時は卸屋に頼んでおきながら、売れるようになったら切った」という書き方をされて、がっくりきちゃいましたけど、結果的にはそこから売り上げが大きく伸びたんです。

(大きな転機となったのですね。)

転機という意味では、ちょうど同じ頃、地ビールづくりに挑戦しました。それというのも、近年は蔵人の高齢化や人手不足もあって、当社では製造担当の社員を雇い始めていました。しかし、酒は冬に仕込みますから夏場は彼らに仕事がない。そこで、夏にピークを迎えるビールを手掛けてはどうかと思ったのです。

(同じ酒類ですからね。)

はい。しかし、これは大失敗に終わりました。ビールづくりの認可を得る時にレストランも経営するように条件づけられたんですね。2億4,000万円を投資して、レストランとビール製造の設備を整えましたが、数か月で資金繰りに苦しむようになり、撤退に追い込まれました。

手元に残ったのは2億円の負債です。東京の大学に通う息子に教科書代すら振り込めませんでした。この時は人知れず泣きましたねぇ。

そして「旭酒造は潰れる」という噂を聞いた杜氏と蔵人たちは、別の蔵に移って、その冬の仕込みには帰ってきませんでした。

(え、戻ってこなかった? 酒づくりはどうされたのですか。)

もう、自分たちでやるしかないなと。

確かに杜氏たちが来ないと聞いた時はショックでしたし、新しい人を探さなければいけないとも思いました。しかし、これまでも業界の慣例を無視して、私はもっとこうしてほしい、ああしてほしいといろいろと注文を出してきました。杜氏もそれを受け入れて一緒につくってきましたが、もう1度そんな関係を一から築くことが億劫でしたし、それをよしとする杜氏が現れるか分かりませんからね。

(それで自分たちでつくろうと決意した。)

はい。社員たちがフル稼働で酒づくりに挑戦しました。もう毎日とんでもない失敗ばかり起こっておかしかったですよ(笑)。

一度、発酵中のもろみの温度を棒温度計で測っていたら、その中に落としてしまったと。たまたま私は外出していましたが、電話がかかってきて「社長、どうしましょう」って(笑)。もう国税庁やら、あちこち相談しましたが、結局搾ったら割れずに出てきたので、ほっとしました(笑)。

その年から杜氏制度を廃止して、自社社員による酒づくりが始まったのですが、おかげで冬場だけでなく、年間通じて酒づくりができる体制を敷くことができました。蔵内を年中5℃に保つよう設備投資もしましたが、生産能力がぐんと伸びましたよね。

(ピンチを飛躍のきっかけにされたのですね。)

何より私がつくりたいように酒がつくれることが大きかったですね。社長の方針のとおりに会社が動くようになった。それがいまの「獺祭」に繋がるもう1つ大きな転機だったと思います。

俺がやっていることは 間違っていない

前年比85%㌫で減っている時に誰かが助けてくれるかといえば、誰も助けてくれないですよ。経営者って自分でやるしかない。迷って悩んで、あっちにフラフラ、こっちにフラフラしながらも、誰も助けてくれません。もしかすると家族でも助けてくれない。

自分がやるしかないと腹を括ったところからいろんな智慧が出てきます。誰かに相談して決めようとか、教えてもらえると思っているうちは出てこないと思います。

支えというのとは少し違うと思いますが、当社の理念は
「酔うため 売るための酒ではなく 味わう酒を求めて」なんです。酒はたくさん飲んでも偉くない、楽しむ酒を、ほどほどに飲んでほしいと、私はずっと言い続けてきました。

社長になりたての頃、売り上げのデータを見ていると、ある時、パッと売り上げが下がる酒屋があるんです。調べてみると、二級酒の小瓶が売れなくなっている。
どういうことかというと、二級酒って一番安いお酒でしょ。その小瓶を買っているお客さんは、自分で酒量をコントロールができず、一升瓶だったら全部飲んじゃうから、小瓶で買い続けているわけです。それが売れなくなったということは病気になったか、亡くなったか、なんです。

私も最初は売り上げを立て直すことに血眼になっていましたから、「長生きをしてもっと飲んでくれればよかったのに」と思っていましたが、ある時期から、それってやっぱりおかしいよなと。そこからですね、量ではなく、質で満足してもらえる酒をつくりたいと思うようになったのは。

先ほど申し上げたとおり、経営者って孤独というか、最後は自分1人しかいない。その最後の最後のところで「俺のやっていることは間違っていない、これは社会のためになっている」と思えることって、精神衛生上、凄く大切だと思います。

旭酒造があることが社会のためになっているという実感がなければ、私の場合、たぶん経営し続けられないですね。また、それがあれば多少石が飛んでこようが、そんなものは放っておけと。

うちのような規模の酒蔵が、日本酒のすべての種類を担うのは無理なので、旭酒造が社会に必要とされるとすれば、たった1点でもいい、圧倒的な優秀性があることが大切だと思ってきました。それがおいしいお酒をつくるということで、純米大吟醸だけを追っかけてきました。

ところが、もっとおいしい酒、もっとおいしい酒と追求していったら、酒税法が定める純米大吟醸の精米歩合を超えてしまった。私たちは法律より実質のほうが大事なので、もういい、「普通酒」でいこうと。それで「獺祭 磨き その先へ」という普通酒ができたんです。

また、今後「獺祭 等外」というものも手掛けていこうと思っています。酒米は等級がついている米でつくらないと、純米大吟醸と表示してはいけないという法律もある。私らは山田錦が足りないから「つくってくれ、つくってくれ」と言って農家につくってもらっていますが、どうしても数㌫は等級落ちの米ができてしまうんです。それを「純米大吟醸と表示できないから買わない」というのではなく、買わせてもらって、ずばり「等外でつくりました」とはっきり表示しようと。農家にリスクを負わせてつくってもらっているのだから、自分たちもリスクを負わなきゃいけない。

来年には本蔵の改築が完了し、五万石の生産が可能になる予定です。品切れでご迷惑をおかけしているお客様にも少しは喜んでいただけるようになると思います。

私ども旭酒造の焦点はお客様の幸せ、ただ1つです。どこまでも自分たちの信じる酒づくりをして、お客様の幸せに寄与できる酒蔵でありたいと思います。

 

(本記事は『致知』2014年5月号の特集 「焦点を定めて生きる」より一部抜粋したものです。

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◇桜井博志(さくらい・ひろし)
昭和25年山口県生まれ。48年松山商科大学(現・松山大学)卒業後、西宮酒造(現・日本盛)での修業を経て、51年家業である旭酒造に入社。酒づくりの方向性や経営を巡って先代である父と対立し、退社。54年に石材卸業の櫻井商事設立。59年父の急逝により家業に戻り社長就任。純米大吟醸「獺祭」の開発を軸に、経営再建を図る。著書に『逆境経営』(ダイヤモンド社)がある。

 

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