2022年09月30日
左が大田さん、右が佐藤さん
2010年に一度は戦後最大の負債額を抱えて倒産した日本航空(JAL)。コロナ禍により航空業界が大きく打撃を受ける中、新たなサービスの創出に踏み出しています。かつて誰もが不可能と断じた同社の再建を牽引したのが稲盛和夫氏でした。当時稲盛氏と共に再建に尽力した日本航空元副社長・佐藤信博さんと、京セラ元取締役執行役員常務の大田嘉仁さんの対談に、危機のリーダー像、改革の要諦を学びます。
稲盛氏を突き動かした3つの大義
〈大田〉
2009年当時、JALの経営問題は日本の最も大きな課題の一つとして注目を集めていましたね。稲盛さんはいろんな方々から再建の舵取りをしてほしいという打診を再三受けていたのですが、最初は全く関心を示しておられませんでした。
〈佐藤〉
最初は固辞なさっていたようですね。
〈大田〉
けれども会社更生法の適用が決まったにもかかわらず、再建を託せるリーダーがなかなか決まらない中で、次第に気持ちが傾いていかれて、最終的にJALの再建には3つの大義があるということで、会長就任を受諾されたわけです。
3つの大義というのは、1つ目が、再建を通じて不振を極めていた日本経済に灯りを点すこと。2つ目は、残された社員の雇用を守ること。そして3つ目は、航空業界に健全な競争環境を維持すること。この3つの大義に照らして、世のため人のために役立つのであれば、引き受けざるを得ないと決断されたわけです。
世間では、稲盛さんがいくら立派な経営者でも、航空サービスの素人に再建できるはずがない。きっと失敗して晩節を汚すだろうといった批判や同情が吹き荒れていました。成功する確率はほぼゼロといわれる中で、稲盛さんはあえて火中の栗を拾われたわけです。
〈佐藤〉
ところがその一方で、当事者である私たちJALの人間は、それまで会社の経営状況がほとんど分かっていませんでした。
私は入社して約35年整備畑を歩んできて、当時は執行役員を務めていたんですが、実際に会社の経営が厳しいことを知らされたのは2009年の秋口でした。当時の社長から「来月の給料が払えないかもしれない」と言われた時は、さすがにそれはないんじゃないかと。グループ5万人のこんな大きな会社が、まさかというのが最初の印象でした。
〈大田〉
それが社内の大半の方の受け止め方だったのでしょうね。
〈佐藤〉
ただ、改めて振り返ってみると、JALは1970年以来、一機200億円以上もするジャンボジェットを100機近くも購入してきました。その上ジャンボは、飛んで行く時は満席でも、戻ってくる時は空席が目立つ状況で、本当にこの会社の経営は成り立っているのかという懸念はずっと持っていました。
ですから、会社が2兆3千億円を超える赤字を抱えていることが明らかになった時は、この会社をダメにしたのは自分たちだという強い自責の念から、会社を去ることしか頭にありませんでした。稲盛さんが入ってこられるという話を耳にしても、再建できるとは夢にも思いませんでしたね。
それだけに、翌年の2010年2月になって総務担当の役員から「新しいJALで整備部門の担当役員を務めてほしい」と言われた時は本当に驚いて、自分の気持ちを立て直すのに苦労しました。
転機となった「リーダー教育」
〈大田〉
私は、まず幹部の方々に考えを変えてもらわないと再建はとてもできないと考えて、「リーダー教育」を立ち上げたわけです。
〈佐藤〉
始まったのは6月でしたね。
〈大田〉
ええ。参加いただいたのは役員の皆さん全員と、部長級はできるだけキャリア、ノンキャリアを隔てずに、さらに若い人や女性の中からも将来性のある人を選んでいただいて、52人を対象にほぼ毎日、17回にわたって実施しました。
講義は一回一時間で、稲盛さんに講義をお願いする日は終講後にコンパも行って、JALの今後について腹を割って語り合いたいと考えていましたから、一日のかなりの時間を費やすことになります。最初は、「この一番大変な時期にとんでもない」と随分反対されました。
〈佐藤〉
しかし、JAL再建の原点になったのは、まさにあの「リーダー教育」だったと思います。私自身が変わったのも、あの勉強会に参加した時からです。
勉強会では稲盛さんから、経営のベース、人間としてのあり方、上に立つ者として社員をいかに導いていくべきか等々、いわゆるフィロソフィについてのお話を諄々と説いていただいて、それまで自分のやってきたことの甘さを思い知らされました。もう最初の2日で頭をガツンと殴られるようなショックを受けました。
ですから、とにかく稲盛さんのおっしゃることを自分の中で消化して、現場の皆さんに伝えなければと、必死で講義を拝聴しました。
〈大田〉
佐藤さんは、稲盛さんの話を特に熱心にメモされていましたね。
〈佐藤〉
稲盛さんの言葉をそのまま伝えても、現場の人にはピンとこないし、なかなか受け入れてもらえませんから、自分なりに分かりやすい言葉に変えて伝えたのですが、あれは随分苦労しましたね。
でもその苦労のおかげで、自分も徐々に変わっていけたと思うんです。会社が倒産したことへの責任意識も強くなりましたし、整備部門の8千人を導いていくんだという自覚は、「リーダー教育」の中でどんどん高まっていきました。
辞表まで用意していた自分が、短期間のうちにそこまで変わることができたのは、やっぱり大田さんが「リーダー教育」を企画してくださったおかげです。それほどにあの17日間はインパクトがありました。
どんな不可能でも実現できる
〈大田〉
佐藤さんは、最初から変革にとても前向きに取り組んでくださいましたが、何も知らない私が「売り上げに対する整備費の割合を、10%以下に抑えてほしい」とお願いした時には、「絶対に無理です」と強く反発されましたね(笑)。
〈佐藤〉
やや声を荒げてしまったのを覚えています(笑)。
〈大田〉
けれども佐藤さんは、見事にその困難な課題をやり遂げられました。
〈佐藤〉
それまでの常識ではかなりハードルが高かったんですが、稲盛さんの考え方が現場の皆さんにもかなり浸透してきていましたから、どうすれば実現できるかを一緒に考えましてね。例えば、整備に使う消耗品にすべて原価を記すようにしました。手袋1枚12円とか、ぼろ布1枚8円というふうに書き込んで、コストを意識するようにしたわけです。
それから、それまでの私たちは、部品がないと整備ができないという発想で、予期せぬ不具合に備えて山ほど予備の部品を抱えていました。ところが飛行機部品というのは非常に高価で、小さな部品でも一つ何百万円、エンジンに至っては7、8億円もかかってしまう。
〈大田〉
最初は自慢されていましたよね。こんなにたくさん部品を準備しているから大丈夫ですと。
〈佐藤〉
そうなんです。しかし、すべての部品の稼働率をレポートしてもらったら、10年くらい使っていない部品がゴロゴロあったので、売却するなどして思い切って半分にしました。空港では常時複数の飛行機を停めて整備をやっているので、必要な時にはその飛行機の部品を使えばいい。停まっている飛行機を大きな部品庫に見立てることにしたのです。
とにかく現場の皆さんがいろんな知恵を出してくれて、最終的には破綻時の30%の保有部品ですべての便が支障なく運航できているんです。
〈大田〉
整備費の削減が進んだことは本当に大きかったですね。毎月の業績報告会の度に、ものすごい額が削減されていきましたが、最初は経費は既にギリギリまで削減している、乾いた雑巾だからこれ以上一滴も水は出ないと思い込んでいたわけですから、奇跡的なことでした。
やっぱり人間というのはすごいですね。現場に佐藤さんのようなしっかりしたリーダーさえいれば、どんなに不可能と思われることでも、皆で力を合わせて実現することができるんですね。
(本記事は月刊『致知』2018年8月号 特集「変革する」から一部を抜粋したものです)
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◇佐藤信博(さとう・のぶひろ)
昭和25年大分県生まれ。44年日本航空入社。羽田整備事業部長、整備本部副本部長などを経て、平成22年2月日本航空執行役員整備本部長、JALエンジニアリング代表取締役社長に就任。24年2月専務執行役員整備本部長、JALエンジニアリング代表取締役社長。26年4月代表取締役副社長(28年3月退任)。29年6月公益社団法人日本航空技術協会代表理事会長に就任。
◇大田嘉仁(おおた・よしひと)
昭和29年鹿児島県生まれ。53年立命館大学卒業後、京セラ入社。平成2年米国ジョージ・ワシントン大学ビジネススクール修了(MBA取得)。秘書室長、取締役執行役員常務などを経て、22年12月日本航空専務執行役員に就任(25年3月退任)。27年12月京セラコミュニケーションシステム代表取締役会長に就任、29年4月顧問(30年3月退任)。現職は、稲盛財団監事、立命館大学評議員、日本産業推進機構特別顧問。