武者小路実篤は二宮尊徳をこう評した

生き方

明治維新後、二宮尊徳の名が全国に知れ渡る
きっかけとなった『報徳記』。
最新号では、その『報徳記』に描かれた
尊徳の伝記を紐解きました。

木村 壮次(経済コラムニスト)
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※『致知』2018年1月号
※特集「仕事と人生」P34

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かつて小説家の武者小路実篤は、
二宮尊徳について次のように謳っています。

「二宮尊徳のことをまるで知らない人が日本人にあつたら、
 日本人の恥だと思ふ」


また、“日本の資本主義の父”と称された渋沢栄一は、
「私は、あくまでも尊徳先生の遺されたる
四ヶ条の美徳(至誠、勤労、分度、推譲)の励行を
期せんことを希うのである」と述べています。

さらに真珠の養殖に世界で初めて成功した御木本幸吉は、
尊徳の生き方に深い感銘を受け、
「海の二宮尊徳たらん」との思いで事業に取り組んできました。



この他にも多くの人物に影響を与えてきた二宮尊徳ですが、
その功績が広く世に知られるようになったのは、
明治天皇の存在が大きく関係しています。

その端緒となったのが、相馬藩藩主相馬充胤(みつたね)が
藩士富田高慶の書き上げた『報徳記』を明治天皇に献上したことでした。

一読、これこそ日本が新たな船出を迎えるに当たって
必要な書であると判断された明治天皇は、
すぐに全国の県知事に対して読むように指示。

これによって全国の役人を通じて世間一般の人々にも広まっていったのです。

生前、二宮尊徳は膨大な日記と書簡を書き記していましたが、
まとまった記録は残していませんでした。

そのため、尊徳亡き後、各地で行われた再建計画(仕法)を受け継いでいく上で、
参考にできる伝記が必要だという話が弟子たちの間で持ち上がったのです。

当初は文筆家に書かせようと、
『江戸繁昌記』の著者・寺門静軒にまとめさせたところ、
弟子たちからは迫力が足りないと不満が噴出。

それならばと、筆を執って一気に書き上げたのが、
長きにわたって尊徳と行動をともにしてきた高弟・富田高慶でした。

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