2025年06月19日
~本記事は月刊誌『致知』2025年7月号 特集「一念の微」に掲載の対談(希望の一念を燃やして生きる)の取材手記です~
難病を抱えて、歩みを止めない二人の女性アスリート
遡ること13年。2012年に開催されたロンドンパラリンピックで、一躍脚光を浴びた代表チームがあります。視覚に障碍のある人が行う球技・ゴールボールの女子日本代表です。
ゴールボールは、選手がアイシェード(目隠し)をつけてコートに立ち、鈴の入ったボールを転がして点を取り合う3対3の競技です。視野が遮断された状態で、巧みなチームワークを発揮し、音を頼りに体でボールを受け止め、闘う。それまで国内で知名度が高くなかったこの競技で、日本代表チームが世界一になったのです。
2012年、ロンドン五輪から凱旋したお二人
キャプテンの小宮正江さん(左)と共に、初の金メダルに貢献したのが、後に小宮さんの後を継いでキャプテンを務め、2021年に延期開催された東京パラリンピックではチームを銅メダルへと導いた浦田理恵さん(右)です。月刊『致知』のご愛読者で、編集部が発行するメルマガまで楽しみにしてくださっている浦田さんには、ロンドン五輪直後に小宮さんと初めて誌面に登場いただきました。そこで明かされた、「網膜色素変性症」という難病で視力を失われた辛いご体験からの懸命な歩みが、大きな反響を呼びました。
そしてこのたび、現在は競技の普及や後進の育成のほか、講演で人々に感動を与えている浦田さんの初の著書『一歩踏み出す勇気』が、弊社から刊行されることとなりました。
そのような中、編集部が一人の若き女性アスリートの情報を掴みました。姫野ナルさん。鹿児島県種子島(たねがしま)出身のプロテニスプレーヤーです。
姫野さんはまだ24歳の若さながら、数年前に相次いで難病を発症。ホルモン分泌の異常により、毎日服薬と注射を行わなければ生命が保てないという状態で、グランドスラム(世界一)を目指して日々闘っておられます。
同じく難病を抱えながら、それによって自分の人生を投げ出すことをよしとせず、真剣に生きておられるお二人。その生き方に感動し、弊誌で対談をしていただくことになりました。
20歳、夢を追う中で突然の宣告
ゴールデンウイークの狭間、5月2日(金)。あいにく土砂降りの雨の中、浦田さんと姫野さんは、それぞれ拠点とされている福岡・大阪から東京の致知出版社までお越しくださいました。
少し先に到着された浦田さんにご挨拶すると、遠路・悪天にもかかわらず、弾けるような笑顔と明るいお声で、今回の対談を喜んでくださいました。ほどなく、姫野さんが到着。対談取材は初めての経験ということで、恐縮しながら入ってこられると、浦田さんがすぐに察知して席を立たれ、初対面と相成りました。
前述のご病気により、視力が限られている浦田さんですが、声の聞こえる位置から姫野さんの長身ぶりを言い当て、姫野さんも驚き(174cm)。続いて姫野さんが鹿児島の種子島出身であることを自己紹介され、熊本出身の浦田さんと九州人同士、一気に打ち解けた様子でした。
最初に感じたのは、お二人とも現時点では完治の方法が見つかっていない難病を持っておられるにもかかわらず、全く〝病人〟らしさがないこと。どこか深い部分に覚悟を据えている、自立した人格の持ち主。そんな印象を持ちました。
難病を抱えつつアスリートとして活躍し、人間としても素敵なお二人。どうしてこのような人物ができたのでしょうか。
お二人には、過去に一つの共通点があります。難病は生まれつきではなく、10代まで肉体的な不自由はなく過ごしておられ、20歳ごろに突然、宣告を受けたことです。その際の衝撃や失意は、いかなるものだったのか。今回の対談では、当時の赤裸々な思いも語られています。
〈浦田〉
私の場合はまず左目の視力が急に落ち始め、3か月で見えなくなってしまいました。次に、右目の視野が外側から少しずつ欠けてきました。見えていたものが見えなくなると、当たり前にできていたことが少しずつできなくなります。これは恐怖でした。
毎日、鏡を見てメイクをしますよね。そこに映る自分の顔の見える範囲が、日に日に狭まっていくのが分かるんです。「あっ、また見えなくなってる……」って。
当時は一人暮らしで、身近に友達や先生はいましたけど、普通と違うことにコンプレックスというか、ばかにされたくないって思いがあって、目が見えないことを知られないよう、必死で〝見えるふり〟をしていました。
浦田さんは当時、教師を目指して地元を離れ、福岡で学生生活を送っていました。ご両親の期待がある中、予想だにしない病気が襲い掛かります。その辛さを誰にも共有できず、日に日に目が見えなくなり、遂には卒業後、ひきこもり生活になってしまわれます。その苦しみは、想像を絶します。
姫野さんは、高校を卒業後、種子島出身としては第一号のプロテニスプレーヤーとして活動を開始。活動の上で制約が大きい離島からプロへの切符を必死に掴み取り、さあこれからという時でした。
〈姫野〉
実を言うと、必死だった背景には、家族の事情もありまして。高校2年の春、両親の離婚の話が持ち上がって、父が家庭を去ることになりました。
(中略)
迷惑をおかけしてしまっている罪悪感から、「自分がしっかりしなきゃ」という思いが強くなっていたんです。
母の実家の近く、大阪に移って活動する中で、2021年の秋、母に突然「顔がむくんでんで」と言われました。確かに、ラケットを持つ手がゴワゴワして、グリップのサイズを下げたばかりでした。気分の上下も激しかったので、精密検査を受けたんです。
結果、脳に腫瘍が見つかりました。診断は指定難病の「下垂体性成長ホルモン分泌亢進症」。腫瘍がホルモンを異常に分泌してしまう病気でした。耳を疑ったのは、「寿命が平均より20年短い病気」と教えられたことでした。
内面に葛藤を抱えて走り出した姫野さんを襲ったのは、ホルモン異常の病でした。さらに、寿命は平均より20年短いものだと……。お二人の回想に耳を傾けながら、何度も胸が詰まりました。
手渡された世界の頂点へのバトン
しかし同時に、お二人はそうした絶望の中で、自分自身の決意、素晴らしい人の支えや出逢いを糧にして歩み出します。
浦田さんはご家族の厳しくも愛ある支えによって、生きるための気づきを得られ、ほどなくゴールボールという競技と出合い、数年後に世界の頂点を経験。姫野さんは当初の難病の治療後、何ともう一つの難病を発症、日々の投薬が欠かせない体となりながら、世界一を目指して闘い続けています。最も深く感動した会話の一つをご紹介します。
〈姫野〉
実はまだ拭い切れないものがあるんです。確かに、ある程度体の調整はできるようになってきました。でも結局、薬がないと生きていけない。私は、薬がなかったら存在しないんじゃないか、私の命はあってないようなものじゃないかって、未だに考えてしまうんですね。
〈浦田〉
なるほど。じゃあ、頼り切っちゃえばいいと思いますよ。
〈姫野〉
頼り切る、ですか。
〈浦田〉
パラリンピックで金メダルを獲った時、地元が前回と比べものにならないほど盛り上がりました。世界一の結果を出すって大きくて、ゴールボールの認知度も一気に上がり、日本全国の顔も知らない人から「勇気をもらったよ、ありがとう」ってたくさん感謝をいただいたんですね。
「誰かがいなければ何もできない自分」が、完全に変わりました。自分にはできることがある、そのできることで生きていけばいい。できることで「ありがとう」って言ってもらうために何ができるかなと考えるほうが大事ですよ。
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同じように難病を抱え、アスリートとしてゼロから世界一へ駆け上がった浦田さんの体験的なアドバイスに、まさにいま必死真剣に頂点(グランドスラム)を目指す姫野さんも、大きな気づきと勇気を得られている様子でした。それはまるで、世界の頂に登る者バトンタッチの瞬間のようでした。
本対談では、お二人が絶望の中で見出した光、生きる希望をいかに燃やしてこられたのか。全身全霊をかけた生き方をお届けしたいと思いながら記事にしました。お二人と同じような境遇にある方にはもちろん、苦しみや悲しみと向き合いながら生きておられる方にぜひお読みいただきたい、そう願っています。
▲対談こぼれ話姫野さんは、女性プロの中でもひときわ腕(リーチ)が長く、肩甲骨の可動域の広さを強みとしておられます。写真撮影時、脇に立った浦田さんが、そのしなやかに鍛えられた腕に触れて感嘆するひと幕も。アスリート同士ならではの共感ポイントが多く、また姫野さんがお好きだというダンスパフォーマンスグループ・EXILEの話題などでも盛り上がり、お二人の飾らないお人柄が垣間見えました。
~本記事の内容~
◇九州から世界へと羽ばたいて
◇愛する家族を一番に頼れなかった
◇見えなくなって初めて見えたもの
◇自分が勝てば大切な人を笑顔にできる
◇平均20年、寿命が短くなる難病
◇自分の人生は自分が動かす
◇薬を断てば命を失う
◇人生の主導権は誰にも譲らない
◇眠っていた力が目覚める時
◇笑顔に開いた天の花
◇決死の覚悟で挑んだ海外遠征
◇誰かが一歩踏み出すきっかけになりたい
◎各界一流プロフェッショナルの体験談を多数掲載、定期購読者数No.1(約11万8,000人)の総合月刊誌『致知』。人間力を高め、学び続ける習慣をお届けします。