【取材手記】映画『ラーゲリより愛を込めて』モデル・山本幡男はなぜ生きる希望を失わなかったのか

終戦後のシベリアで過酷なラーゲリ(強制収容所)に抑留されながら、勉強会や俳句の会を主宰し続け、不屈の精神を以て人間らしく生きることに徹した山本幡男。幡男はなぜ生きる希望を失わなかったのでしょうか――。『致知』最新6月号では、その艱難辛苦の人生から見えてくる希望を失望に終わらせない要諦を、「山本幡男を顕彰する会」の岡田昌平会長に繙いていただきました。今回はその取材秘話を担当編集者が綴ります。

映画『ラーゲリより愛を込めて』に心震わされ

「最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである」

山本幡男(やまもと・はたお)さんの遺書に綴られていた言葉が、一つの機縁となりました。

企画の発端は、2022年12月。映画『ラーゲリより愛を込めて』を映画館で鑑賞したことがきっかけです。俳優・二宮和也氏が実在の人物・山本幡男を演じて話題を集めた本作は、興行収入26億円、観客動員200万人を突破する大ヒットを記録しました。

第二次世界大戦の終戦後、約60万人の日本人が抑留されたとされるシベリアのラーゲリ。氷点下40度の極寒、乏しい食糧、過酷な強制労働……。多くの俘虜が生きる望みを失う中、「ダモイ(帰国)の日は必ず来る」と絶望の淵にある仲間を励まし続けた人物、それが山本幡男でした。

映画では幡男の壮絶な半生、時代に翻弄されながらも愛する夫を信じて待ち続けた幡男の妻・山本モジミとの家族愛が克明に描かれており、涙を禁じ得ませんでした。そして何より胸に迫ってきたのが、冒頭に紹介した遺書の一節です。

家族を想い、仲間を想い、希望を胸に天寿を全うした。そんな幡男の生き方が凝縮された言葉は、観賞後も脳裏から離れませんでした。これは『致知』で紹介すべき、いや、しなければならない人物である――。そう確信に至ったのです。

以降1年以上にわたって企画を検討し続けた末、6月号特集「希望は失望に終わらず」での登場に繋がりました。幡男の故郷・島根県西ノ島で立ち上がり、顕彰碑の建設や講演活動に注力されてきた「山本幡男を顕彰する会」会長の岡田昌平さんにお話を伺い、「偉大なる凡人」の生涯に迫ったのです。

山本幡男(やまもと・はたお)
明治41年島根県隠岐島黒木村生まれ。東京外国語学校(現・東京外国語大学)に進学。昭和11年南満州鉄道会社の調査部に入社。20年日本降伏後ソ連に抑留され、スヴェルドルフスク収容所に収容。25年俳句をつくり合う「アムール句会」の活動を開始。29年喉頭癌性肉腫悪化のため収容所内の病室で逝去。

終戦後に60万人を襲った悲劇

そもそも、終戦後に多くの日本人が抑留されたラーゲリとは一体どのような施設だったのでしょうか。岡田さんに説いていただいた内容を抜粋して紹介します。

〈岡田〉
1945年8月15日、終戦。大戦で1,400万人が犠牲になったソ連は自国の労働力不足を補うため、満州と樺太にいた60万人の日本人を抑留しました。ハルビンに身を置く幡男も例に漏れず、否応なく連行されてしまいます。そして貨物列車に乗せられ辿り着いたのは、スヴェルドルフスクの広漠たる雪原に佇むラーゲリでした。

俘虜は氷点下40度をも下回る極寒の中、土木建築作業や鉄道建設などの重労働を強いられ、朝6時から真夜中まで働き詰めの毎日です。日々課せられる過酷なノルマを達成するのは困難を極めました。加えて、1日に支給される食糧は黒パン350グラム、朝夕に粥が飯盒に半杯、砂糖が小さじ1杯のみ。帰国の希望も見えない劣悪な環境下で、俘虜の目は次第に虚ろとなっていったのです。

想像を絶する過酷な環境に晒され、強い絶望に打ちひしがれた俘虜たち。実際、不当に抑留された60万人のうち、約1割は伝染病などを発症して命を落としたといいます。敵意を丸出しにしたソ連人の監視、日本人抑留者同士の小競り合い、余りの苦しさに自ら命を絶つ者…。希望のかけらもない毎日は、俘虜から感情さえ奪っていきました。

それでも、幡男は「生きる希望を捨ててはいけません。ダモイ(帰国)の日は必ず来る」と仲間を鼓舞し続けます。さらには抑留から半年後に夜間勉強会を立ち上げました。不思議に思った俘虜に、幡男はこう述べたのです。

「生きて帰るという希望を捨てたら死んでしまう。頭を少しでも使わないと、日本に帰っても捕虜ボケして使いものにならないから」

人間性が容赦なく剥ぎ取られる環境下にも拘らず、一歩でも自らを磨き高めようと探究を続けた幡男。なぜ幡男は生きる希望を失わなかったのか――。

本記事では全4ページにわたって、幡男が仲間からの信頼を築くきっかけとなった逸話や抑留生活中に最も力を注いだ俳句の会「アムール句会」の活動など、一つひとつのエピソードを岡田さんの語りで詳らかに紹介しています。

↓インタビュー内容はこちら!

 ▼「ダモイの日は必ず来る」偉大なる凡人の生涯
 ▼博学多才さの原点 向学心に燃えた青年期
 ▼「生きて帰るという希望を捨てたら死んでしまう」
 ▼過酷なラーゲリで灯し続けた希望の光
 ▼一晩で書き上げた15頁の遺書
 ▼「最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである」

妻・モジミに宛てた愛の遺書

幡男の壮絶な生涯を語る上で欠かせないのが、母・妻・子供らに宛てたノート15頁分の遺書です。

「これは日本人全体に向けた遺書のように思えてなりません」。岡田さんがそう語ったように、幡男がラーゲリの病室で書き綴った遺書は家族愛と人間愛、そして人の道を説いた、人生の集大成といえるものでした。

ラーゲリ内では遺書を持ち出すことはおろか、文字を残すことさえ禁じられていたにも拘らず、なぜ遺書の全文が家族の元に届けられたのか。その全貌はぜひ本誌をお読みいただきたいのですが、ここでは本誌で紹介し切れなかった、幡男が妻・モジミに宛てた遺書をご紹介します。

幡男は1933年、25歳の時にモジミと結婚しました。お見合いで出逢った二人ではありましたが、幡男はモジミを一目で気に入り、結婚前には「君は太陽で、僕はそれを追いかける向日葵だ」というラブレターを頻繁に書き送ったといいます。

戦争に巻き込まれ、仲睦まじい夫婦生活は長く続かなかったものの、二人は強固な絆で結ばれていました。片や極寒の地で過酷な強制労働に耐え、片や女手一つで幼い4人の子供を育てることができたのは、お互いの存在が希望そのものであり、再会できる未来を信じていたからでしょう。それだけに、幡男が遺した妻への並々ならぬ思いには、心を震わされました。

〈妻よ!〉
「よくやった。実によくやった。

夢にだに思はなかったくらゐ、君はこの十年間よく辛抱して闘ひつづけて来た。これはもう決して過言ではなく、殊勲甲(しゅくんこう)だ。超人的な仕事だ。失礼だが、とてもこんなにまではできまいと思ってゐたこの私が恥しくなって来た。

四人の子供と母とを養って来ただけでなく、大学、高等学校、中学校とそれぞれ教育していったその辛苦。郷里から松江へ、松江から大宮へと、孟母(もうぼ)の三遷(さんせん)の如く、お前はよくまあ転々と生活再建のために、子供の教育の為に運命を切り拓いてきたものだ!

その君を幸福にしてやるために生れ代ったように立派な夫になるために、帰国の日をどれだけ私は待ち焦れてきたことか! 一目でいい、君に会って胸一ぱいの感謝の言葉をかけたかった! 万葉(まんよう)の烈女(れつじょ)にもまさる君の奮闘を讃(たた)へたかった!

(中略)

君は不幸つづきだったが、之からは幸福な日も来るだらう。どうかそうあって欲しいと祈っている。子供等を楽しみに、辛抱して働いて呉(く)れ。知人、友人等は決して一家のことを見捨てないであらう。君と子供等の将来の幸福を思へば私は満足して死ねる。雄々しく生きて、生き抜いて、私の素志(そし)を生かしてくれ。

二十二ヶ年にわたる夫婦生活であったが、私は君の愛情と刻苦奮闘と意志のたくましさ、旺盛なる生活力に唯々感激し、感謝し、信頼し、実によき妻を持ったといふ喜びに溢れてゐる。さよなら」

家族や仲間を想いやり、日常のささやかな喜びを見出していく。幡男の誠に徹した生き方は、コロナ禍やウクライナ情勢をはじめ、内憂外患の時代を生きる私たちに、希望を失望で終わらせない要諦を示して余りあるのではないでしょうか。


岡田昌平(おかだ・まさひら)
昭和17年島根県西ノ島生まれ。46年中央大学卒業。58年西ノ島町町長就任。平成10年「山本幡男を顕彰する会」を設立、以来現職。平成11年西ノ島町町長を退任。

▼『致知』2024年6月号 特集「希望は失望に終わらず」
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